ゲオルギーネにせよヴィルフリートにせよ、行いの報いは本人が受ける他にないのだけれど、ではその当の本人がかような人格であること、あるいはかような人格になったことの報いを本当に全て受けるのが正しいのか、と考えてみた時、やはりそれには無理があるのではないか、と思ってしまう。
その人がその人になったことの功罪は、その人自身にだけ起因するのではなく、やはり育てた人や育った環境にだって起因しているのではないかと思うからだ。
ゲオルギーネの人生に思いを馳せる度に「詰んでるなあ」という感想を抱くのだが、それは彼女の人生はこういう破滅を迎える以外、他に辿り着ける場所がなかったのではないかと感じるからだ。
彼女の行いについては彼女が報いを受けるしかない。彼女はそれを命で支払った。だがそれを命で支払ったところで……と思ってしまう。彼女をこのようにしたのはまず第一にヴェローニカであり、アーデルベルトであった筈だ。そのことを抜きにゲオルギーネ自身に全ての責任を帰し、命でそれを清算させたところで、何の意味があるのか。何の意味もない。彼女の生が虚無で塗りつぶされるだけだ、と感じる。
ゲオルギーネが真の意味で責任を担える範囲はどこからどこまでだったのだろう、と考える。自己は他者によって育てられざるをえない。では自己が自己を担うことはどこまで可能なのだろう。ゲオルギーネのどこまでが本人の担い得る自己で、どこからが担いきれない自己だったのだろう。
「ここから」「ここまで」という風に線を引くことは土台無理なのだけれど、それでも考えてしまう。ヴィルフリートについてもそうだ。彼は弟妹にとって迷惑な兄だし無神経な兄だが、では彼は自分が他者にとって無神経で迷惑な存在であることをどれくらい担えるのか。担えないのではないか。担えないという観点が読者には足りない、そしてフロレンツィアが「ヴィルフリートには(少なくともすぐには)担えないのだ」という認識に至るまでの年月が、この物語のほぼ全編を占めているのではないか。