フェルディナンドは供給の間で倒れた時に自分の命を諦めた(彼自身の心理状態としては完全に諦めモードだった)のだけれど、ロゼマさんが名を奪って「生きて下さい」と命じたことで強制的に諦められない状態にさせられた。

そのことで彼は「諦めない」とはどのような感情なのか、どのように振る舞うことなのかを知った。だから最終巻のプロローグでは、今度は自分から自然な形で「ローゼマインの命を諦めない」と思えるようになる。それはローゼマインが死ねばユルゲンシュミット全体が滅びるという、究極の背水の陣を敷いた戦いでもあった。

彼がローゼマインに名を捧げたままでありたいと願うのは、名捧げこそがそうしたことの証だからではないか、と思う。ローゼマインが自分を諦めないでくれた証が名捧げであり、自分がローゼマインを諦めずに足掻けたことの証もまた名捧げである、という。

フェルディナンドの中では、この人の命を諦めない、絶対に助ける、という意志や感情が、きっと名捧げと強く結びついている。そしてその意志や感情こそが、彼の思う「愛情」の背骨でもあるのだと思う。

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それにフェルディナンドにしてみれば、神々の力を枯渇させ、ローゼマインに人間の魔力を取り戻させるというあの一連の計画は、自分が名捧げをしていたから可能だった……という認識だろうと思う(それは第五部11のプロローグからも窺える)。

彼にとって名捧げは、彼自身が唯一諦めたくないと思った「ローゼマインの命」の最も近くにいられることを意味している。何があっても彼女に拒絶されないという証が名捧げなのではないだろうか。

だから彼が名を捧げたままでいたい、何ならローゼマインからも名を捧げてくれたら良いという旨を発言しているのは、お互いに何があっても拒絶しない、されない関係でいたい、その具体的な証が欲しい、そういう感情の発露なのだと思う。

ハン5の展開を見るに、ローゼマインが彼に名を捧げていなくて良かった、むしろ名を捧げていないことが彼を助けられる余地を生んでいるのだから、彼の認識は正直これはこれで非常なバイアスというか、彼の世界や他者への不信頼に基づいた考えだよなあ、なんて思うのだけれど、フェルディナンドがそれだけローゼマインに必死になっているのが、やはり愛おしいなあと思うのであった。

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