ニャンは死者と共に生きている人だな、と思う。奇妙な言い回しだけど。マージナルな存在なんだよな、彼は。竜と人の境界で生きているというのもそうだし、生者と死者の間でも生きている。
彼にとって、自分が辛くも生きながらえたことの「意味」とは、命の限りその場所に立ち続けることなのかな……と。
生者と生者の殺し合い、憎み合いによる断絶なんて実はまやかしで、真に断絶した二者とは生者と死者との間の断絶であるということ、そこには橋なんて架からないこと、そして全ての死者は、確かに一度生者だったのだということ……。彼はそうしたことに誠実であろうと生きている、のだと思う。
それはエメトセルクに対峙するヒカセンと重なるよね、とも。
5.5まで来た。ヒカセンに対して、アシエンの行いを理解できない、許せないと思っても対話を試みるのかと問い、ヒカセンが分かり合えなくても覚えていることはできる、と答えると「それは茨の道だぞ」って忠告してくれたニャンに胸が締め付けられたよ……。
ニーズヘッグのことを「絶対に理解できない、理解したくもない」と思っていたに違いない彼が、ニーズヘッグの影となって、邪竜の思いに共鳴せざるを得なくなった、その経験があるから恐らくそういうことを言ったのだろうな……というようなことを思った。
エメトセルクが死に、エリディブスと戦う中で、今までヒカセンは他人の戦争を戦っていたけれど、今度の今度はヒカセン自身の戦争を戦うことになるんだなあ、というような感触を覚えた。で、エスティニアンは竜詩戦争で自分自身の戦争をしたことがある身で、だからヒカセンに対してこういうアドバイスをしたんだろうな……みたいなことを思う。
死者と生者の別という観点から戦争を眺めた時、憎み合う二組の生者はどちらもただ「生者」であり、生を連帯している側、共犯している側である、という風に言えてしまう。
ヒュトロダエウスがヒカセン(アゼム)に対して、エメトセルクのところへすぐに行っちゃ駄目だ、だって覚えているって約束したんでしょう、というようなことを言う訳だけれど、生者として対峙した時は憎み合う者同士、敵同士の相手でも、そこで命のやりとりが行われて、片方が死の岸辺へ旅立った瞬間から、敵味方の別が失われ、全く別の区分(つまり生と死の区分)が立ち上がることになる。死者ハーデスは、生者ヒカセンにとって既に「敵」ではない。憎しみは色褪せ、或いは洗われて、自分に命のバトンを手渡した人の一人として懐かしくも物悲しい顔を持つようになる。
ニャンにとってのニーズヘッグも、そのような他者なのだろう、と思う……。
無理を承知で相手を理解しようと試みる、駄目でも相手の思いを記憶に留めて生き続ける、というのはとても辛くて苦しい。エスティニアンはニーズヘッグの影となってその苦しみを我がこととして認識して、きっととても苦しかった。それはニーズヘッグの感情そのものが辛くて悲しいものだったことに加え、それが正に「自分自身のもの」でもあったから苦しかったのだろう。
そして彼はその後も、失われた命に向き合う旅を続けてきた。人が殺した竜、竜が殺した人、その死者達の声に耳を傾けてきた。それが彼の贖罪でもあるだろうし、辛くも死を免れた生の誠実な使い方でもある、ということなのだろう。
ヒカセンはきっと暁月を通して、星全体に関わる形でエスティニアンのような経験をしなくてはならない。エスティニアンはそれを直観していて、だからヒカセンを案じているのかな……と思うんだよね。
そのことが本当に……本当に……ニャン優しいなあ、と。アルフィノとヒカセンと自分、三人だけでいる時にそれを言ってくれる彼に、ぐっときた……。