昨日書いた「世界との軋轢や葛藤から個人の文体は生まれる」というくだりは、大塚英志の「感情化する社会」で紹介される江藤淳の「文体論」の完全な剽窃である。第六章「機能性文学論」の中に「作家と社会や『現実』との軋轢が発する徴(しるし)が『文体』」と書かれてあるのを見て、若きhonninmanは「これだ!」と思ったのだ。実際のところ、自分が「文体」とは何かを語れるほど「文学」をわかっているとはとても思えないが、これを「声」に置き換えると少しだけわかる事がある。私は変な声の人が好きだ。しかしこれは「生まれながら変な声の人」ではなく「変な声を出す必要があった人」を指す。私は子供の頃から自分の声がとても嫌いで、様々な発声法を長年試してきた。そのうち地声を日常生活では全く使わなくなり、発声に合わせて抑揚やリズムも変化した。「現実との軋轢が生むノイズがギターのディストーションなのである!」などと書くと途端に文体がロッキング・オンめいてくるが、世界と向き合う中で、自分を疑ったり、自分を歪めた形跡があるパーソナリティや表現についてはやはり好きだなと勝手に思う。地声で朗々と歌える曲ができたのはごく最近である。