「それって法律違反ですよね」とか「それって世間から白い目で見られるんじゃないですか」しか言えない程度の正義であれば、善を為すとはどういうことかという想像力が足りないのでは、と、大昔の福音書にでさえ書いてあるんだと思う。

人の作った法ならば、それは不完全である可能性が常にあるのだから、神の法というものを仮定して、人の法の不備を相対化してみたり、そもそも神の法にも不備があるという可能性を想像してみたり。

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法と「正義」、「善」は及ぼす範囲が違いますよね。法は人間界のものだけど、正義や善は動物植物自然界にも影響を及ぼすから。「環境善」という言葉あることからも明らかだと思ってます。


法とは人為的な約束事で、善はより包括的、そのとおりと思います。

だから「法の支配」とは、あくまでその約束事の範囲で(好悪の感情は排除して)物事をマネジメントしようね、という意味であって、その法律によって不具合が生じたら、法のほうを変えていかなきゃね、ということなんだと思います。

昨今、「だって法はこうでしょ」というバカの一つ覚えを、世の中の綻びを見過ごす言い訳にしていることが多いような気がしています。。海外から来ている不法就労者の人権問題しかり。。

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