やっと読んだ。ひとことで言うと、何を言いたいのかよくわからない。

何かを言ってしまって「それは間違っている」と言われたとして、なら間違っているかどうかを考えて、間違っていたなら修正してより良い正義を目指せばいい、それだけの話なのに、その可能性はないことになってる。なぜないのかも説明されていない。何かを隠したいんだと思う。

asahi.com/articles/ASS8V026WS8

しつこく埴谷雄高を引用して誠に恐縮でありますが……

「人間が条件によって可変的であるとの革命的な認識は、まず、固定したかたちの敵を容認しなくなったばかりでなく、一般に人間を敵として設定することをも不可能ならしめたのである。もし与えられた条件が変革されれば、それまで敵と見られたものも敵でなくなってしまうばかりか味方にさえなるのであって、敵は与えられた条件自体であるというその認識はひたすら、人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与えるまさに革命的な転変なのであった」(埴谷雄高「政治のなかの死」1958年)

おのれを含むところの人間の可変性についての認識を支えるのは、〈人間のみを敵とすることによって冷酷な死と流血を歴史のなかに記録してきたこれまでの政治のかたちに、ひとつの決定的な終止符を与える〉ことをめざす思想的背骨
QT: mastodon-japan.net/@lematin/11
[参照]

るまたん  
やっと読んだ。ひとことで言うと、何を言いたいのかよくわからない。 何かを言ってしまって「それは間違っている」と言われたとして、なら間違っているかどうかを考えて、間違っていたなら修正してより良い正義を目指せばいい、それだけの話なのに、その可能性はないことになってる。なぜないのかも説明されていない...
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理論的あるいは政治的正邪しかものさしがないことのおかしさをえぐる思想がないと、軽薄にも「正義に疲れて」しまうのではないか説

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