本日の産経新聞「正論」欄は、近藤誠一(元文化庁長官)の「年の始めに思う年中行事の重要さ」。これが、「クールジャパン」系日本文化論における怪しい「自然観」の見本となっていて興味深い。sankei.com/article/20230116-BW

近藤氏はまず、温暖化が大変だからどうするかと問題を立て、

「温暖化対策にとって根本的に重要なのが専門知をまたぐ横串としての自然観と共感力だ。近代西洋科学の底流には、自然は「外」から観察し、実験を通して理解するものという思想がある、そのため自然や生命の本質を十分に解明できず、経済成長のための資源と捉え、大量消費を止められない」。

と、近代西洋科学は思想的にダメだという(とってもありきたりな)論を展開する。

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その上で――

「自然を理解するにはこの思想を転換し、人間は自然の一部で、自然はその「内」から直観的に理解すべきものという発想を広げねばならない(伊東俊太郎『近代科学の源流』)。そこで注目されるのが日本の伝統的思想・文化には、自然との深い関係性の認識が内在することだ」。

――とつなぐのである。「日本の伝統的思想・文化には、自然との深い関係性の認識が内在する」も、ここで挙げられている伊東俊太郎―梅原猛的な文献群では1970年代から飽きるほど繰り返されてきたことであり、いわゆる「日本文化」に即して斎藤正二や鈴木貞美らの論者が丁寧に批判を加えてきたところである。
例えば斎藤正二は大著『日本的自然観の研究』(八坂書房、1978年)巻頭で、公害による深刻な自然破壊を糾弾し「かなり昔から言い古るされてきた「日本的自然観」なる術語も、まさしく“支配の象徴体系”にほかならなかった」と喝破している。
それに加えて、そもそも「自然との深い関係性の認識が内在する」のは日本だけなのか、ほかにも学ぶべき地域的文化はあるんじゃねえの? なんでよその地域は出てこないのかな?

というのも、この現象は、「日本的自然観」の(西洋に対する)優位性を語る目的に規定されている。持っていきたい「答え」があるから、「日本的自然観」だけを語ればよいのである。
近藤氏の「正論」寄稿では、上掲引用箇所にひきつづき、「年中行事」の形骸化を嘆く。
「中でも日本人に愛され、自然を日々の生活に浸透させてきたのが年中行事である。この年末年始では、デジタル・ネイティブと言われる若い人たちはどの程度伝統行事に参加したのだろうか。大掃除はロボットの掃除機に任せ、……プラスチックの松飾りやおせち、七草がゆをコンビニで買って済ませたのかもしれない。

いずれも時間と手間とコストを効率化してしきたりに従ったということなのだろう。しかしそこで失われるものがある。自然や生命への畏敬の念、謙虚さ、季節の移ろいの感動、先祖や家族への想いなど日本人としての誇りやアイデンティティーの再確認の機会だ。それだけの犠牲を払う対価として彼らは何を得るのだろうか」

つまり、「日本的自然観」を再生産する「年中行事」が形骸化すると、「自然や生命への畏敬の念、謙虚さ、季節の移ろいの感動、先祖や家族への想いなど日本人としての誇りやアイデンティティーの再確認の機会」が失われると説くのだ。

ここが言いたいことなわけですね。ここで列挙されているものを分解してみると

(1)自然や生命への畏敬の念、謙虚さ
(2)季節の移ろいの感動
(3)先祖や家族への想い
(4)日本人としての誇りやアイデンティティーの再確認の機会

(1)(2)は自然に対する感じ方だが、そこから(3)「先祖や家族への想い」に繋ぐのには大きな飛躍がある。親切に意を汲んでやるとしても、自然と対になるところの人間社会、その人間社会が自然に働きかけてきた歴史的変遷というモメントがぶっとんで、それが一挙に「先祖や家族」というより血脈を意識させるものへと実在化されるわけですね。
この展開は、第五期国定修身教科書「ヨイコドモ」下(昭和16年)の項目「日本ノ国」の時代から変わってねえ……

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