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「論破」について考えながら、岩波『世界』9月号の小田中直樹「歴史学(者)の役割とはなにか」の最後の方(ステファン・ベルガーについての説明があるあたりからラストまで)を読み返してたら、倉橋耕平『歴史修正主義とサブカルチャー』や呉座勇一氏と百田『日本国紀』のこととかが頭に浮かんできまして
とりあえず現段階での自分の理解をメモがわりに

倉橋→歴史修正主義(「論破」を目的)はアカデミズムとは知のあり方が違うよ!歴史修正主義者を「論破」しても、それは彼らの土俵に乗ることになるよ!

呉座→百田『日本国紀』を「論破」しまくる→その後、別件でやべえ人だと明らかに

ステファン・ベルガー→右翼ポピュリストとは闘技的なコミュニケーションをとりかわすべきだよ!闘技的~は「論破」とは違い、対話を続けようとする意思が存在するよ!ただし闘争相手とはコンセンサスに至ることを目的としてないよ!

小田中→熟議的コミュニケーション(コンセンサスに至ることを目的)を諦めちゃダメだよ!

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