祝詞に句読点を勝手に付け足したことなどたいした改変ではない、と考えていること自体が祝詞提供者の意志と信仰への軽視であり、かつ綿密な話し合いがなされずに最終的な使用許可を取らずに刊行したことの証になっているのだけど、このnoteは筑摩書房も了承しているのだろうか。

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このnoteのリンクが記載されたツイートを引用してイベントの宣伝をしてるアカウントもあるし、いろいろと呆れてしまう。宗教信仰者の言うことなどあてにできない、嘘っぱちだ、という感覚が前提にあるんでしょうね。

マイノリティの言うことなどあてにできない、嘘っぱちだ、という感覚とそれをもとにした言動をまさに「差別」と言うはずなのだが。

句読点のない読みにくいものを作家である私が読みやすいように整えてあげただけなのだから、それは改変でも盗用でもない、という態度はまさに宗教・信仰を未開・野蛮・反知性などとみなし、それらを啓蒙する我々こそ進んでいて正しいのだという植民地主義的発想なのではないか。あるいは、そのような軽視をしながらも自らの文化とは異なるものを魅力的としてその上っ面だけを利用するのは、オリエンタリズム的な振る舞いとも言える。

というような反差別の文脈からの批判を抜きにしても、刊行前に祝詞がどのように使われることになったのか、その最終確認を作成者にさせないまま刊行してしまうのは業務的に手続き不備でしかない。刊行前に献本もされてないようだし、その点に関しては言い訳の余地もなく作家と出版社の怠慢でしょう。

じゃあなんでそんな手続き不備をしてまで刊行したのか、ということを考えると、「連絡会の言うことや宗教・信仰のことは理解したくないが、祝詞(や厄払いという魅力的な素材)は作品のために使いたい」のだとしか思えず、やはり差別や搾取といった話に戻ってくる。

(いまここですべき話ではない、という指摘を受け、その指摘は妥当なものと判断し、一部投稿を削除しました)

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