反差別には常に自省が伴うものなので、差別をおこなう者を「無能/低脳/馬鹿/知性なし...etc.(だから差別をするのだ)」と断じ、無自覚であろうとも他者化(=反差別の指摘をする私はそうではない)をした時点で道を踏み外し始めている。つまり我々はみな例外なく「道を踏み外し始めている」のであり、踏み外しては戻り踏み外しては戻りを繰り返す必要があるとも言える。
この矛盾を引き受けながら実践し続けねばならない反差別は、その点において「どこにもない場所であるが、そこを目指し続けている間はどこかに存在する(が、たどり着いたと慢心した瞬間にディストピアへのルートがひらかれる)」ユートピアと類似する。

また、差別を指摘したときにそれを認められない相手のことを「知性がないから」「盲信(妄信)してるから」などの理由でもって片付けてしまうことが多いけども、差別行為の発露がときに「(どうにもできない自らの苦しみについての)SOS発信」が形を変えて表に出てきていることもある、ということも念頭に入れる必要がある。
これは、反差別目的の批判をしたときに「でもあなたの言説のなかには別の差別に加担するものがありますよ」という指摘を受けた際に、それを受け入れられない場合がある、といった例の説明にもなるような気がしている。つまり「なぜSOS発信が受けとめてもらえないのだ」という感覚が生じ、ゆえに批判を受け入れられない。それは知性がないからでも盲信(妄信)しているからでもない、ということも当人ならわかるはず。

差別をおこなう者は排除すればよい、SOS発信だなんて知るか、救ってやる必要などない。という方向性で続けていくと、やってくるのは「誰も救われることのない」世界だと思う。差別行為を繰り返す者を他者化して線引きするのはやめなくてはならない。とてもとても難しいことだけど。
(当然、これは差別の対象とされてしまっている者らに課される義務ではない)

差別を意図的に繰り返す者らと同じ土俵に立ってはならない、とはよく言われることだけど、かれらを無能/狂信者などと他者化して見下す/嘲笑することは「同じ土俵に立たない」の正しい在り方ではない。必要なのは、その差別行為をなんらかのSOSの発露と捉え、かつその苦しみの根源は誰もが抱え得るものであると認識すること、つまり「一緒にその土俵から離れましょう」というような接し方をすることなのではないか、と思う。「同じ土俵に立たない」の意味合いを変える必要があるように思える。

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差別加担の指摘を受け入れられない理由のひとつが「なぜ自分のSOSは無視されて、SOSの中にあった無自覚な差別の批判だけされるのか」というものなのかもしれず、そうなると必要なことは「あなたのSOSは受けとめた。それとは別軸であなたの無自覚な差別も改善していきましょう」という態度を鮮明にすることなのだけど、その切り分けをすることが難しい場合もある。特に、ある者が属性Aの差別に反対するなかで属性Bを無自覚に差別していて、それを属性Bにある者が切り分けをしつつ批判をする、という場合。

つまり当事者(どうし)による話し合いがうまくいかないことが多いのはこの切り分けが両者ともに難しいからで(なぜならどちらもSOSだから)、あいだに入って切り分け担当をする第三者が必要になる。しかしその切り分け担当はどっちの側にも寄り添うことになるため、ゆえに「そっちの味方につくのか」的な感情をぶつけられることも多く、結局三者共倒れとなることもある。でもその「味方につくのか」も不安=SOSであり、容易に切り捨てることもできない。

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