メモ書き的に脈絡なく書くこともあるので、スレッドにはするけど話が飛び飛びになることもあると思います。とりあえずいま思い浮かんだこと。
八百屋で、お客さんが新鮮なキャベツを見分けることができるようになるためにあえて腐ったキャベツを隣に置く場合、
・このキャベツが腐っているということを明示する
・悪臭によって気分が悪くなる者が出るのを防ぐためにクリアケースに入れるなどの対策を施す
この2点が最低限満たされているのなら、それは言論のアリーナとして機能する(かもしれない)。
しかし実際にはキャベツの状態は明示されず、防臭対策もされずに置かれている。誰も買う者がいなかったとしても、悪臭で体調不良になる者がいればそれは安全対策の不備である(それが腐っていることを認識しているのならなおさら)。
そもそも「言論のアリーナ論」というものの存在を知っているチェーン書店員がどれだけいるのか。低賃金で働かされている者が人文書(基本的に高価)を読む余裕があるのか。さらにそもそも、その本に書かれていることが差別言説であることに気がつけるチェーン書店員がどれだけいるのか。チェーン書店の現場を回しているのはパートやアルバイトの非正規労働者である場合が多い。当然、かれらの「知」が足りないのをかれらの努力不足のせい(だけ)にしてはならない。そのうえで、書店現場の実際は、「それが腐ったキャベツであることを見抜けない店員」によって「無造作に置かれている」というものであり、それは決して福嶋の考えるアリーナではないはず。つまり、「ヘイト本を認識したうえで闘わせる」という福嶋のアリーナ論を実践できている書店など、極少数である。
反差別の実践を「気にせずに済む者」の知的遊戯にしてはならない。言論のアリーナ論を肯定的に捉える者は、まず自らが「気にせずに済む者」であることを認識する必要がある。
言論のアリーナで「言論」どうしを闘わせているつもりかもしれないが、注釈をつけたり安全対策を施すなどの、シーソーの傾きをならす無数のパラメータ調整をしないままヘイトスピーチを闘技場にあげてしまうことはあってはならない。なぜならヘイトスピーチは、マイノリティ当事者を問答無用で闘技場に引きずり上げるため、言論という概念どうしを闘わせているつもりでも、実際には「悪意の塊としての言論vs丸腰の当事者」という状況を作り出すことになる。
その様子を観客席という安全地帯から観ていることを「反差別の実践」と呼ぶことはできない。それは反差別の「実践」ではなく「論評」であり、冷静に状況を分析する自分という知的遊戯に酔いしれているだけである。
言論のアリーナ=民主主義の場を成立させるには、その前提条件として「その場に誰もがいられる」環境=セーファースペースを作る必要がある(実際にはそんな環境は成立不可能ではあるが、だからこそそれを目指さなければならない)。言論空間に参加することができない者がいる以上、そこは言論のアリーナではない。
しかし、福嶋の言論のアリーナ論を知っている者の多くは、高価な人文書を買えたりそれを読んで理解ができるだけの能力がある者に限られている。いわば我々は知的特権を享受できる強者であり、そんな強者からは「認識できていない」世界に生きている者、生きることを強いられている者がいることを、我々は認識しなくてはならない。我々が「十分に安全だ」と思っているアリーナは、かれらにとっては決して安全ではない(が、「気にせずに済む者」である我々はそれに気がつけない)。
現状、チェーン書店の現場で展開されている「アリーナ」は、
・福嶋のアリーナ論を知っているがゆえにそれを目指してはいるが、自らが「気にせずに済む者」であることに無自覚なまま作られる、実際には「悪意のあるヘイトスピーチという無敵の言論vs問答無用で引きずりあげられた丸腰のマイノリティ当事者」というアリーナ。
・福嶋のアリーナ論も知らないし、その本がヘイト本であることも気がつけない(ほどに各種余裕のない生活を送っている)書店員によって作られる、単なる無造作なアリーナ(当然そこでもマイノリティが丸腰のまま引きずりあげられている)。
であり、いずれにせよ福嶋が理想としているであろうアリーナと、そこから導き出される(ことを期待している)結果は得られていない。
我々はみな、想像以上に「見ていない」し「読んでいない」し、知らないことのほうが圧倒的に多い。大谷翔平が野球選手であることを知らない者もいるし、それは知っていても日本での所属球団が千葉ロッテマリーンズであったことを知らない者は多い。大谷翔平でさえこのレベルなのだから、たとえばトランスジェンダーについて存在(概念)自体知らない者だってたくさんいる。むしろ多数派であろう。なお、大谷翔平の日本での所属球団は千葉ロッテマリーンズではなく北海道日本ハムファイターズだが、私がいまここで誤りを正さなければ「マリーンズである」と認識したままの者が生じたはずである。我々は、興味関心のない物事について得た情報はテキトーに認識するし、自主的に情報をアップデートすることもない。
ゆえに、マリーンズのユニフォームを着た大谷が表紙になっている雑誌とファイターズのユニを着たそれが隣に並んでいても、どちらを「正しい大谷翔平」と認識するかはその者次第であり、マリーンズの大谷を正しいとする者が現れることを防ぐことはできない。
言論のアリーナにしていれば、自ずと正しい意見=差別ではない言説が選び取られるはずだ。という認識は、あまりにも我々の「認識能力」を過信している。これは「知性の有無」の問題ではなく、認識能力の問題であり、認識能力は「興味関心のないもの」に対しては無意識のうちに低下する。言論のアリーナを構築するのならば、それを前提としなければならない。
また、我々は想像以上に見ていないし読んでもいない。お店の外に「CLOSE」「営業時間外」という看板を出していても入店してくる者はたくさんいるし、「関口竜平(せきぐちりょうへい)」とふりがなを振っても「りゅうへい」と読む者がたくさんいる。我々人間の認識能力を過信してはならない。これはその者の知性を見くびっているわけではない。
〈募集〉
「言論のアリーナ」的な書店(もしくはそれ以下のただの無頓着書店)に行ったときにどのような気持ちになるか、あるいはなぜそのような場所には行けないのか。もしくは、書店店頭にかぎらず、差別がいたるところに存在する社会において生活をしなくてはならない、そのことがもたらす各種の苦痛や実害。
みなさんの声はイベント時に共有できればいいな......と思っています。マイノリティとしての地位を規範や社会環境から押し付けられてしまっている者がどのような生を強いられているのか、業界人の多くは知らないので。
要領をえない文章でも大丈夫です。返信やbooks.lighthouse@gmail.comまで。もちろん匿名でOKです。
福嶋が店頭からヘイト本を外さないのは「本を外したところで社会にあるヘイトはなくならない」「むしろ店頭から外すことでヘイトの存在そのものも隠蔽してきまう(から抵抗できなくなる)」という理由もあるようだけど、いまや「言論」の場は本屋店頭ではなくSNSに映っているということが、理解できていないように思える。
差別やヘイトに活用できる「タネ」を見つけた悪意ある者はそれをSNSでの投稿に盛り込む。仮に本屋からヘイト本が消えたところで、残念ながらその「タネ」はどこにでもある。そして、本屋にあるヘイト本を「抵抗」のために読むのはその時点で反差別の意識がある者に限られており、多くの読者は気にせずに済む者としてのマジョリティである。ゆえに、ヘイト本を目にした者の反応の多くは「本屋で見かけただけの知識をもとにした、悪意のない差別意識の開陳」にしかならない。意図的に差別したい者は言わずもがな。
起こったことや考えたことを気軽にSNSに投稿するのが現代社会であり、そこではあまりにも「気軽に」自覚のない差別が投稿されている。マイノリティはそれを目にする。本屋からヘイト本が一掃されたところで「ヘイト」は日常に溢れているし、それを我々は目にしている。ただしそれは意識しなければ気がつかないのだけど、それは本屋店頭だろうとSNSだろうと同じこと。本屋にアリーナができていてもほとんどの者は気がつかない。書店員自身がヘイト本であることに気がついていない場合もあるのだから。
そして、やはり我々出版業界人は「人はみな本屋に行くものだ」ということを前提としすぎている。本屋に行く者よりSNSを開くことのほうが多いことなど、考えるまでもないのだけど。
トランス差別に具体的に言及
もはや本屋は言論の主戦場ではなく、現代の主戦場であるSNSに議論の「タネ」を供給するための場でしかない。そしてどの「タネ」が選ばれるかについてもパワーバランスの影響があるため、たとえ本屋店頭にある数が少なくても、ヘイト言説のほうが採用されやすい(採用されてSNSに投稿されたあとの影響力も大きい)。
例:トランス女性に対する差別が圧倒的に存在する社会においては、「トイレで云々」という言説があればそれが強烈な勢いでもって活用されることになる。これはヘイターだけに限らない。トランスの存在すら知らない者も同様に、「そんな危険なやつがいるのか」という反応になる。そしてそれが印象に残り、「気軽に」SNSに投稿されることでまたその「危険言説」は強化される。
福嶋さん、基本的に「差別とたたかうべきだ」という姿勢で、それ自体は間違ってはいないんだけど、たたかうべきなのは「差別に耐えうる状況にある者」であって、全員ではないんですよね。福嶋さんの脳内にはカウンターの人たちが浮かんでいるのかもしれないけど、反差別を主張する者らの中には当然ながらマイノリティ当事者もいて、かれらはむしろ「たたかいから逃げるべき」なのだけど、そこをまったく見てないように思える。つまり我々がたたかうのは、マイノリティがたたかわずに逃げられるようにするためで、でもアリーナ論だとそのたたかいにマイノリティが巻き込まれてるよ、というのがアリーナ論への批判だということ、もしかして気がついてないのかな。
なんらかの本の形になって世に放たれているものは、なんだかんだでそれだけの「権威」や「地位」があるからこそできるもので、本に書かれたマイノリティの言葉だけを読んでいても「実態の理解」は完全にはできないんですよね。もちろん、「SNSに投稿できる」ということも同様。SNSにすら姿を現せない状況に追い詰められてる者がたくさんいるし、もう存在しない者もたくさんいる。そういう「重み」を業界人は体感することがない。本という知的特権を享受できるエリートだから。