どうやらどこかで○○が話題になっているらしい、という情報からその話題の詳細も文脈も理解しないまま○○についての自論を述べ=①、その自論を見た他者がまた詳細も文脈も理解しないまま①についての感想を述べたり=②、①を大元の話題の詳細と文脈を「正確に理解したもの」として認識したうえで自論を被せたりして=③、どんどん大元の話題の詳細や文脈からどんどん離れていってしまう(&確認しようとしない)。
この①を界隈の権威/人気者とか学者とかもやってたりするので、それを見た「(自分を)一般人(だと思ってる者)」は②③をやりがちになる。
という、SNSの悪いところを煮詰めたような事象はよく生じてしまう。構造的にそうならざるを得ないものでもあるので、自分が認識してた詳細や文脈と違うことがわかったら、あらためてそのうえで意見表明をし直すなどしてほしい。全知全能ではない私たちにはそれしかできないのだから。
ゆえに「まず当事者の話を聞く」というのが当事者がマイノリティであるかどうかにかかわらず大事なんだけど、話を聞くべき当事者と聞かなくていい当事者がいるという線引きを私たちはしてしまいがちなので、それもまた状況を悪化させる要因になっている。
仮にどんな凶悪犯罪者だとしても当事者である以上その話は聞くべきである。聞いたうえでその倫理性のなさや論理破綻を指摘すればよいし、それはできる。はなから「聞かない」という選択肢をとってはならない。というかこれって法の下の平等みたいな話ですよね。
反差別運動やってると「差別主義者の話は聞かなくていい」マインドになりがちなので、私たちはなおさら気をつけたほうがいいと思う。
当然、当事者の話であってもその発言内に相手方への加害になるような、あるいはトリガーになるようなものが含まれていたのなら、その話を聞かない/話をさせないという選択肢をとる権利が誰にでもある。
あるいは、そもそもそうならないように第三者的な者による仲介が必要になる。当事者どうしをたたかわせない。そういう環境を作らねばならない。