SNSでなにかを語る、というのはこの危険性から逃れられない営みなので、文脈が違うことが判明したら「ごめん文脈ちがったね、訂正する」でいいし、あるいは他者から「こういう文脈もあるよ(私たちはこの文脈で話しています)」と教えてもらったら「そういう文脈もあったのなら、そっちの線でも考えてみる」と言えばいい。
同じ○○というワードやテーマを語っていても、その文脈や状況設定は違う。そして、むしろ文脈や状況設定こそ重要なので、違いを明確にしたうえで意見表明したり受け取ったりしないといけない。
ゆえに「まず当事者の話を聞く」というのが当事者がマイノリティであるかどうかにかかわらず大事なんだけど、話を聞くべき当事者と聞かなくていい当事者がいるという線引きを私たちはしてしまいがちなので、それもまた状況を悪化させる要因になっている。
仮にどんな凶悪犯罪者だとしても当事者である以上その話は聞くべきである。聞いたうえでその倫理性のなさや論理破綻を指摘すればよいし、それはできる。はなから「聞かない」という選択肢をとってはならない。というかこれって法の下の平等みたいな話ですよね。
反差別運動やってると「差別主義者の話は聞かなくていい」マインドになりがちなので、私たちはなおさら気をつけたほうがいいと思う。
この「文脈や状況設定の違い」を明確にしないまま発言をしていても、あるいはそうするからこそ人気者=フォロワー数多いアカウントになってしまったりするので、なおさらこの粗雑語りの濃縮循環みたいなものが加速していく。
Twitterは引用RTによって、Mastodonは分散型サーバーによって。つまりどのSNSを使っていても生じてしまう。