そもそもこれは「反差別の実践をしていても生じてしまう、気づかれにくい差別」についての、身内どうしでの自己点検的な議論であり、そもそも意図的に差別や加害をしたがっている者=極右などは眼中にないし、入れるべきでもない。反差別の目的を「差別主義者=極右などを倒すこと」だと捉えているからこうなる。

反差別を「敵=差別主義者を排除する」という方向性で続けていくとどこかでおかしなことになる。とるべき方向性は排除ではなく「包摂」だ。どうすれば可能な限り多くの存在を包摂できるのか。

どうすれば可能な限り多くの存在を包摂できるのか、を考えて実践していれば、それはおのずと意図的な差別主義者への批判や抵抗になる。わざわざ「差別主義者は出ていけ」などと言う必要も、そのような態度でのぞむ必要もなくなる。つまり眼中になど入らなくなるし、議論に乗ってしまうなんてこともない。

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私たちがまなざすべきなのは常にマイノリティであり、マイノリティを丁寧にまなざしていれば差別への抵抗=盾を拵えることは可能だ。敵を倒すための矛は不要。どうしても矛を手にしたいと思ってしまうのなら、そのときあなたに必要なのは他者から差し向けられる盾=ケアだ。敵とたたかわずに盾の中に入ってほしい。矛で敵を刺してもあなたの傷は癒えない。

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