自分の属性を明かさずに、あるいは他者に推測させることなく、なんらかの抵抗運動をすることはできない。つまり「属性が他者に知られる/推測可能な状況になる」ということだけでもって「加害(の可能性がある)」と認定されてしまうのであれば、あらゆる不当な行為に対して一切の抵抗ができなくなる。

差別に抵抗する者が被差別当事者である場合はもちろんだが、非当事者であっても他者から「あの人は当事者なのだろう」と推測されることを拒む手段はない。自らの属性を明記していない場合は特にそうだし、そして自らの属性を明かさなくてはならない義務もない。しかしいずれにせよ、不当な行為に抵抗しているのだから当事者なのだろう、という推測は本人の意図と関係なく常に可能である。

となると、属性の明示=加害行為としてしまうと、他者による勝手な属性の推測によって加害認定が可能になるし、その否定のためには属性を明かすことが必須になり、強制的なカムアウトになる危険性が生じる(あるいは己に嘘をつく必要が生じる)。そしてカムアウトの結果、実際に「当事者」だった場合、属性の明示=加害行為という方程式から即座に断罪されることになる。

また、「かつて罪を犯したことがある」という理由でもってその者の存在自体を悪としてしまうと、我々は誰ひとりとして存在できなくなる。差別=加害は例外なく全員がおこなってしまっている。

そしてその属性に所属する者がかつて罪を犯したからといって、ほかの所属者までをも加害(可能性を持つ)者として拒絶することも、上記同様の理屈で我々全員に例外なくブーメラン的に跳ね返ってくる。

①男性の中には性暴力を実際に犯した者がいる。これは事実。
②だから男性のすべてに加害の可能性がある。これは「自戒として」のみ許される断定である。しかしここを突破してしまうと、
③だから加害可能性のある男性はその属性を明かすべきではない(明かすこと自体が加害になる)。という理論が導き出せるようになってしまう。

当然、これは男性だけに限らないし、性暴力だけに限って適用される理屈でもない。

行為と欲望を切り分けられないと、属性と個々もまた切り分けられなくなる。欲望があるということ=行為が生じるわけではないし、ある属性に所属していること=その属性に所属している他者と同じ振る舞いをするわけではない。そして後者の「属性と個々の切り分けができない」ことは差別・ヘイトの特徴でもある。

「○○」という現状ではセンセーショナルなものとされてしまっている属性の名を目にするとどうしても拒絶反応が先に来てしまうのかもしれないが、その背後にある論理をまなざさないと、より周縁化された者に対する「よりわかりにくい」差別・ヘイトに無自覚に加担することになってしまう。当然、「○○」は現在話題になっている特定の属性のみに当てはまるわけではない。

ただ、実際になんらかの加害を受けてしまった者が抱いてしまう恐怖などはどうしようもなく、それを否定することもできないとは思う。なので、被害者に対するケアが必要ことと、そのケアがどのようなものだといいのかを考えることは、「別軸」で、つまり切り分けて考える必要があるものだと思う。

あ、ちょっと日本語がわかりにくい。「ケアが必要なこと&ケアの方法を考えること」はセットで、それと別軸で=切り分けて考えるべきことは前のツリーで言及していた「属性の明示と加害にまつわるあれこれ」の話です。

そして、加害行為を実際におこなったからこそ属性が明かされる/推測が可能になることと、加害行為をしていないにもかかわらず属性が明かされてしまう/推測が可能になってしまうことは、やはり別物である。で、ここではじめて具体的な事例としてその名を名指すけども、実際にチャイルドマレスティング=児童虐待をおこなったことによってペドフィリア的欲望を抱いていることが明かされる/推測可能になることと、ペドファイル差別が存在するが故の抵抗運動によってペドフィリア的欲望を抱いていることが明かされてしまう/推測されてしまうことは、別物だということ。

己の抱く欲望が加害可能性を持つことを、実際の加害行為をおこなっていない者は認識しており、だからこそ自身がその欲望を抱いていることを積極的に明かすことは、自身の身に危険が迫ったとき以外はしない。これは自らの「見た目」などが混乱を招く可能性を考慮して特定の場所に行かないこと/自らのアイデンティティを明かさないことを選択しているトランス者と同様の振る舞いであり、トランス者がトランスであることを明かさねばならなくなるのは、トランスがトランスであることそれだけでもって加害とする言説をぶつけられたときである。

お前は何者かと問われる状況、それ自体がすでに差別の危険を孕んでいる。我々はその問いをぶつけられずとも生きられる。それはマジョリティが「お前は何者なのか?」と問われることがないことからも明白である。

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加害の可能性は誰にもある。男性女性トランスノンバイナリーゼノジェンダーetcどんな存在にもそれはある。同様に、同意のない性行為が起きる可能性もまた、大人→子どもにかぎらず大人→大人/子ども→子ども/子ども→大人のどれにもある。ゆえに加害の可能性でもって断ずることはできないし、してはならない。断ずるべきなのは常に「なされた行為」のみである。

たとえば児童(生徒/学生)が教師に恋心を抱くことはよくあるし、恋心を抱かずに性的欲求をぶつけることもよくある。教師に対して卑猥な言葉を連呼する子どもはたくさんいる。しかしだからといって「子ども」がすべて大人に対して同意のない性的な行為をするわけではない。そして我々はみな「子どもが大人に性的な欲求を抱くこと」だけでもって「子ども」の存在そのものを否定することはない。欲望=加害行為の可能性だけでもって断ずることが許されるのであれば、教師に卑猥な言葉をぶつける子どもがいるという事象それだけでもって「あらゆる子どもの存在」を否定することが可能になってしまう。そうなると児童(生徒/学生)が教師に恋心を抱き、それを秘めていることすら否定すべきことになる。

そういう理論を完成させてはならないでしょう。

とにかく、属性と行為は切り離して考えること、常にそこは外してはならないポイントだと思う。なぜなら差別・ヘイトとは属性と行為を結びつけることから始まるから。

しかしこれはなかなか難しい。たとえば我々はどうしても「自民党だから」とか「ネトウヨだから」とかの理由でもってその行為を認識してしまったりする。属性と行為を切り離して考えるのならば、たとえば「公文書を偽造したこと」とか「嫌中嫌韓の言説に飛びついたこと」とかそのものだけを批判すべきなのだけど、どうしてもそこに「自民党だから」「ネトウヨだから」を結びつけてしまう。でもそれを続けていると、いつのまにか、なされた行為がなんであろうと「○○だから」という理由で批判するようになる(当然それはまっとうな批判ではないが)。それはもう、やってること向こうと同じじゃん、という話である。

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