TOUTEN BOOKSTOREでのイベントで少し話をしたのだけど、最近、反差別・反ヘイトに対する向き合い方というかアプローチの仕方を変えていて、つまりそれはセーファースペースの構築という意識によるもので、いかにして「排除されてしまう存在が生じないようにするか」ということを考えている。
SNSにおける「反差別・反ヘイト」は基本的に「加害者/加害行為に対する批判」がメインになっていて、かつバズりやすいのが「悪意のあるわかりやすい加害」に対する「強気な態度での反対表明」である。これは当然必要なことなのだけど、一方で、複雑に絡みあっているはずの事象を単純化してしまったりするし、「わかりやすい加害」だからこそ「なぜそれが加害となるのか」という理論を考えないまま批判することができてしまい、その結果として「認識されにくい=より周縁化された者の排除」を生んでしまうこともある。
差別/ヘイト/加害...etc.とはなんなのか、その理論を丁寧に学んでおかないと、「感覚的に判断できちゃう=わかりやすい」ものにだけ反応し、判断してしまうことになる。それは「差別を道徳で考える」ことと同じような気がするし、その最たる例がフェミニストによるトランス差別だと思う。自分がほかの属性でそれをやっていないか気をつけたい。
そして「理論を十分に理解」している者などこの世にはいないので、私たちは常に間違いをおかしながら、つまり誰かを排除しながら生きることになる。その事実に対する「怯え」のようなものを忘れずにいるようにしたい。
差別が往々にして「自分の感覚と相入れないもの」に対して行なわれてきたものであることを思うと、理論を徹底的に詰めないまま「自分の感覚」のみでなにかにNOを突きつけてしまうことの危険性にも思い至るのではないか。
ここについて補足をすると、「自分の感覚と相入れないもの」はやはり往々にして「これまでの社会常識とは相入れないもの」と同義であり、それこそまさに差別が生じる仕組みだったりする。