気にせざるをえない者や気にすることができる者が「誠実に振る舞おう」とするがゆえに生じてしまう亀裂や軋轢があり、それらはひとえに社会構造が原因なのだけど、その社会構造を変えるには気にせずに済んでいる者の力が必要で、そのためにはある種の「誠実ではない振る舞い」も必要になることがあり、それもまた亀裂や軋轢の原因となってしまう。なぜ「気にせざるをえない者」と「気にすることができる者」だけが苦しみ傷つけあい、その一方で「気にせずに済んでいる者」が文字通りなにも知らないまま楽しく過ごし、気にせずに済んでしまうがゆえに容易に築くことができる「絆」を誇り笑いあう、そんな状況が存続しているのか。くるしいね。ほんとうに。
私は「気にすることができる者」でありたいから、「他者のために誠実に振る舞おうとした」「気にせざるを得ない者」どうしが、その結果として傷つけあうことになってしまうのがやるせないし、どうにかしたいと思うけども、きっと構造がそうさせてくれないからその試みはうまくはいかないのだろう。その結果として私が悪者になることもかまわない。だけど、このような状況があることを知ることもない、知るつもりもない者たちが呑気に生きて、気にせずに済む者どうしであるがゆえに成立しうる思いやりやらなんやらで「やさしくて素敵!」みたいなことになってしまうことだけは、どうしたって納得がいかない。