本好き書店員がなぜ差別の問題に無関心だったり、そのことを指摘されると「怒られるのイヤ!」で逃げてしまうのか、原因のひとつとして考えられるのは、かれらは「良い人」だということですね。そうです、差別を思いやりや道徳で捉えてしまう典型です。「良い人」だから自分は差別なんかしないと思っているし、なおかつ「怒られること」への耐性がない。なんとなくわかるだろうか。優等生だからこそ逆にポキっと折れちゃうアレに似ているかもしれないですね。なまじ「良い本」を、たとえば思いやりのある人がたくさん出てくるアットホームで夢や希望に溢れた物語を、かれらはずっと読んできている。だからこそ「構造」の問題であることが理解できないし、その構造のなかにいることを「指摘される」とそれを「非難」と捉え、怖がってしまう。そして自分の世界に閉じこもる。
みんな良い人なんですよ。でもそれゆえに「システムの不具合を個人のがんばりでどうにかしてしまう」ことを美徳と捉えてしまうパターンに陥っていて、それが本好き書店員(パート・アルバイト・正社員問わずとにかく低賃金)のスタンダード。取次や版元、そしてなによりも社会全体の不具合が問題であることに対してすら、かれらは自分(のお店)のがんばりだけでどうにかしようとしている。そのことを指摘されると、つまり「構造を変えましょう、だから社会=政治を見ましょう」と言うと、なぜかそっぽを向く。それはおそらく「良い人」だから。かれらが読んできている物語の登場人物たちがそうやって「思いやり」と「道徳」と「自己犠牲」で難局を切り開いてきているから。
ちょっと話を戻すと、怒られることへの耐性がないのはどうしようもない面もある。怒られることへの耐性は、換言すると「自信がある」ということでもあり、つまりある程度の成功体験がないと身につかない。少なくとも、現代社会を生きる書店員で「自分の仕事が成果に結びつく」経験をしている人はあまりいないだろう。社会がこんな状況じゃ本など売れやしないからだ。Twitterなどでフォロワーが多くなるようなバズりを経験していない人はなおさら、目に見えるわかりやすい結果は得られていないし、リアルな場である職場では余裕のない正社員(上司)や客に非難されてばかりの状態だ。そりゃ当然「怒られるのイヤ!」となる。だからこそ構造=社会に目を向けなきゃならないのだけど、この袋小路はなかなかどうにもしがたい。
私が(基本的には)マジョリティとしてこのように活動ができているのは、幼い頃からの積み重ねで「怒られる」「批判/批評される」「うまくいかない」「努力がすぐには報われない」といったことへの耐性がついているからでもある。そのあたりは自分のがんばりだけではない恵まれていたものも多くあり、どこかであちらがわに行っていてもおかしくない。