ここ最近はTwitterでなにかを言うことのハードルの高さというか、より正確には「言ったあとの心身のダメージ」が大きくなりすぎていて、マストドーンがあってよかったと感じている。私はもともとそのあたりの耐性は強いほうだが、それでも最近はきつくなってきている。もちろんここもいつかはTwitterのようになるのかもしれないが、少なくともいま、安心してなにかを言える場所があることは救いである。
クソリプなんぞ本来はまったくもって気にしないでいい存在なのだが(なぜならクソリプを飛ばしてくる人はお店のお客さんになる可能性などないし、そもそもそこまでお客さんの層を広げたり数を増やす必要がある規模でもないので)、それでもなにゆえか気にしてしまう。かれらに「私のまっとうさ」を認めてもらう必要など一切ないにもかかわらず、それを欲してしまうのはなぜなのか。ちょっと冷静に考えればくだらないことであることに気がつけるのだけど、ふと気づくと気に病んでしまっている自分がいたりする。
お店のアカウントなのでエゴサをせねばならない。しかしそうすると時折クソな言説が目に入ってしまう。バズったときはなおさらその頻度が高まるし、クソ度合いもより高いものが世に放たれている。そんなもの気にせず即ブロックしてしまえばいいとわかってはいるが、それが素直にできないことが多い。
援護や連帯を目に見える形でしてくれる「同業者」が少ないのが、この辛さの原因のひとつであることは間違いない。私は「すごい本屋」だなどと言われたくない。結局それは「ライトハウスの関口はすごい人だからそれができるんだよ、私は普通だからできなくても仕方がない」という言い訳にしかならないから。私は共闘してくれる存在がほしいのであり、私を称賛してくれる存在がほしいのではない。今回書いた本もそのためにある。しかしきっとどの本屋も「称賛」して「距離」を取ってしまうのだろう。遠い世界の話であると。
シャワーを浴びながらあらためて考えたが、やはり絶対におかしいのだ。生きるために抵抗せざるを得ないマイノリティがいる一方で、せざるを得ないわけではないマジョリティとしての私が反差別の本屋として称賛され、その称賛が同業者の「(すごくない自分は)共闘しなくていい」という言い訳となり、結果として残るのは「抵抗せざるを得ないマイノリティの状況がなにも変わらない」ということなのは、どう考えてもおかしいのだ。
ゆえに私は同業者からの、あるいはマジョリティからの称賛を受け取るべきではない。私が受け取るべきなのは、より正確には感じるべきなのは、どんな形であれ「共闘している」ものの存在であり、そのまなざしである。そして、それを感じ取れるのがいまはこの場所なのだろう。いま私がマストドーンで目にする投稿は、どんな立場にある人のものでも、どんな形のものであっても、たしかに共闘していると感じられるものだということ。
というようなことを考えているとき、いろいろな宗教が言っている「現世は地獄、死後の世界に救いがある」みたいなあれを、はじめて理解できた感覚があった。もちろん死ぬつもりなどなく、むしろ可能な限り長く地獄で苦しんでやるつもりなのだけど。
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援護や連帯を目に見える形でしてくれる「同業者」が少ないのが、この辛さの原因のひとつであることは間違いない。私は「すごい本屋」だなどと言われたくない。結局それは「ライトハウスの関口はすごい人だからそれができるんだよ、私は普通だからできなくても仕方がない」という言い訳にしかならないから。私は共闘してくれる存在がほしいのであり、私を称賛してくれる存在がほしいのではない。今回書いた本もそのためにある。しかしきっとどの本屋も「称賛」して「距離」を取ってしまうのだろう。遠い世界の話であると。