さっき軍港の埋め立てについての投稿を見て思ったこと。私が政治や社会の動きについてネットや実際の活動で何か言いにくい・言いたくない・考えたくない、と感じちゃうのは、特に地元沖縄の問題になると顕著になる。地元をインターネットで特定されたくないってのはもちろんあるけど、「この問題について何も言っていない」というのが分かりやすくなるから。
Whataboutismみたいに、「このことを言っているけどあのことは言わないのか」と難癖つけ始めたら終わりがない。ちょっと話がズレるけど、トランス差別的本の発売が中止になった際に「反対している人たちは⚪︎⚪︎差別のことは何も言ってなかったから連帯と言われても」という意見が流れてきたのを見て、これこそワットアバウティズムなんじゃないのかと呆れたことがある。
ま、私は何に対しても考えが浅いから「私は考えてるもん!」と言うつもりはないけど…。
なんでもやもやするのかまた考えてたけど、結局社会運動も数の論理に任せているように感じているのかも。多くの人の関心が集まらないと、多数決で勝たないと、状況が変わらないという論理のように私には見えてしまうんだろう。