「存在(<存在>という視点の設定という出来事)を畏敬し、それに随順し、それと調和し、いわばそこに包まれて生きることと、その<存在>をことさらに<それはなんであるか>と問うこととは、まったく違う‥。
「そのように問うとき、すでにあの始原の調和は破れ、問う者はもはや原始の出来事のうちに包み込まれていることはできない。こうして<叡知>との<調和>がそれへの<欲求>、それへの<愛>に変わり、<叡知を愛すること>が<愛知=哲学>に変わってしまう。‥ハイデガーは、このプラトンとアリストテレスによる<哲学>の樹立を「偉大なはじまりの終焉」と見る。」(木田元『わたしの哲学入門』,p.191)
それを対象化して見るとき、それに対する構え、或いは特別な定点を占めることが出来る、視点としての能動性を有する主体が生まれてしまうからである。この主体こそ自然を操作し支配する者、ランボーが否定する近代の宿痾としての主観にほかならない。