「もし君の愛が愛として相手の愛を生み出さなければ、もし君が愛しつつある人間としての君の生命発現を通じて、自分を愛されている人間としないならば、そのとき君の愛は無力であり、一つの不幸である。」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫1964年,p.187)
マルクスのこの表現は、「とりわけある種のひとびとに好まれ、「君は愛をただ愛とだけ」交換できる(so kannst du Liebe nur gegen Liebe austauschen)という言いまわしとならんで、くりかえし言及」されてきた(熊野純彦)。
なるほどロマン主義的で、近代的な自我が好みそうな思考と言うのだろうか、あるいはちょっと見方をかえてみれば「どんなに一生懸命やったって、結果を出さなければ意味がない、結果がすべて」と言い切る社畜の言葉のようにもとれる。
マルクスもつまずく主体による能動性の罠こそは、古来から繰り返されてきた人間の能動的な能力への過信とその限界についての反省、傲慢さから謙虚さへの揺り戻しといった人間の思考方法が持つ一局面なのである。