“科学”になった経済学から抜け落ちたもの─ゲーム理論のうすら寒さ | 自由主義の「空回り」の歴史 courrier.jp/news/archives/3862

損得をもとにした「抑止論」の上に成り立つ平和の危うい側面  そこに「ひとの暮らし」は存在しない courrier.jp/news/archives/3862

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“「ホモ・エコノミクス」は公理としての方法論的な仮定にすぎず、現実の人間がそうだとまで述べているわけではない。とはいえ理論が多くの場合、ひとへの説得役を果たし、結果的に人間の思考や行動の指標となることを考慮すれば、たんなる公理だからで済ますのは、やはり無責任の誹りを免れない。他者への思いが「ウィン・ウィン」だけであるような人間関係は、なんとも貧弱でうすら寒い

科学や技術が戦争に利用されるようになると、経済学も戦争と平和の問題に深く関わることになった。自由を謳う側が提唱する平和構想は一見説得的ではあったが、実は圧倒的に強者の論理であり、またやがてはAIに結実することになるような、いわゆる「合理的推論」に沿って、ただたんに平和を概念的に定義しただけにすぎないものでもあった。”

中山智香子、キレキレである。。氏の現時点での最新論考になる『経済学の堕落を撃つ』は読ませる内容だった。オススメします。

経済学は何を間違えたのか - 中山 智香子 | 連載 | トイビト toibito.com/toibito/series/e70

“新自由主義の何が決定的にまずいかといえば、先ほども出てきた自己責任の過剰な内面化です。老後は何千万円必要だとか言われるままに、生涯、必死にお金を貯めて、それがなくなったら一人で死ぬしかない。たとえ人口減少や高齢化社会という現実があるとしても、個々人の自助努力だけで問題を解決しようとするのは、あんまりではないでしょうか?

 「生まれる」は受け身だと言われるように、私たちは必ず誰かに産んでもらい、そして食べさせてもらうわけです。私たちの生はそういうつながりの中から始まり、成り立っています。それは大人になっても続いており、だからこそ社会に出れば食べていくことができる。”

こちらの連載記事では、中山智香子氏の論考が自身の口で平易に語られている。ご紹介しておきます

中山の戦争経済論の基本にあるのは

「コストがかかるからという理由で植民地をもたない、求めない方がいいとか、経済的に合理的だから戦争をしない方がいい、平和がいいという論理はとても危うい。それは、裏を返せば、儲かる植民地ならば存在してもいい、儲かる戦争はやった方がいいということになるからだ」

ここの部分だと思う。よくTwitterで見かける軍師もどきのバカさ加減を一撃で蹴散らしている

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