Twitterのアカウントで回ってきた暇空周辺の連中とやってることが全く変わらない映像を見ていて思う。無理を通して道理を引っ込ませるのはたまらない快感なんだろうな、右も左も。だから引っ込ませるのが享楽化する。これは思想的立ち位置の左右に関係ない。法曹、アカデミシャン、編集者…、職業も関係ない。差別者判定行為が完全に享楽化しそして、それに互いに依存している。極めて狭い半径の中の、しかしある程度の権威がまとわりついているホモソーシャル的な集団(男だけとも限らない)が、いとも簡単に一線を越えていく。まあこうしたことはネットでは昔からよく見かける光景だが、極右の一部は多少なりともそうした状態に自覚的だが、左派リベラルを自称、自認する方は全くの無自覚であることが事の深刻さを表してる
人的空間を閉ざしておいて、個人の帰属意識を弄くり回すのはマルチ、カルトの常套手段だが、個人の「信仰の自由」は尊重するが、「ここは教会である」、とは言わず権威勾配をかさにしてそれを飲み込ませたり、異論を認めず排除を享楽化し消費していたら、そりゃ論外になる。今のこの時代に山岳ベースを復活させてどうする。自己決定権自家中毒の果ての新自由主義とミソジニーの悪魔合体。なかなかに醜悪な光景だなと。