欧州大陸における近代哲学の変遷などを紐解いていくと、必ずぶち当たるのが公共と私領域の構図。最近は公共圏と親密圏とも言われるが、そのの差異、その違いのわからない人が、保守系だけでなくいわゆる左派リベラル的な立ち位置の中にも一定数いて、そこが「表現、言論の自由」なり「ポリティカル・コレクトネス」に絡む言説を無駄に費やしているのが、ここ十数年の流れで、特に日本の場合は相当に拗れていて、正直に言えば積極的に議論に絡んで行きたいとは到底思えない無惨な光景が広がっている。
その昔、自営業者時代に業界団体の中の人として、ホラー映画規制やら児童ポルノ規制などでいろいろとネット上に情報を提供したことがある身として、今の惨状にいたる責任の一端がなくもないわけで、非常に忸怩たる思いもある。しかし公共という概念を左右に関係なく壊しにかかっていることは、社会として極めて危険な兆候であり、やはり何らかの意思表明は続けていかなくてはならないとも思っている。
全てを消費したいヒトらにすると、身体そのものだけでなく、臓器というパーツですらもその対象にする。己の体を消費財とするか否かを決められるようにするための自己決定権であり、リプロダクティブ・ヘルス/ライツだとする。社会に横たわる権威勾配、階級は全て透明化した上でだ。ネオリベはその目的を果たすために言葉の概念を奪い去るというのが大きな特徴であり、それ故に対抗するためには、「単純化せず具体的に」「物語を神話化せず、関わる人を聖人化しない」「地域や状況を限定する。それを普遍化してはならない」という原則を貫かなければならない。
階級をアイデンティティ化することの危険性はここにある。例えば、労働者階級であることを誇りに思うこととそれをアイデンティティ化することは全く違う。アイデンティティ化してしまえばそれは解体できなくなる。解体されなければその構造、つまり現実社会に横たわる差別や搾取は温存されるということだ。ネオリベは極めて巧みに承認欲求を煽りながら階級のアイデンティティ化を狙っている
階級の透明化された、議論は常に疑ってかかる。肝に銘じておきたい。たとえ善きことだとされていることでも、その例外にはならない。むしろ善きことの中にその罠は仕掛けられている