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欧州大陸における近代哲学の変遷などを紐解いていくと、必ずぶち当たるのが公共と私領域の構図。最近は公共圏と親密圏とも言われるが、そのの差異、その違いのわからない人が、保守系だけでなくいわゆる左派リベラル的な立ち位置の中にも一定数いて、そこが「表現、言論の自由」なり「ポリティカル・コレクトネス」に絡む言説を無駄に費やしているのが、ここ十数年の流れで、特に日本の場合は相当に拗れていて、正直に言えば積極的に議論に絡んで行きたいとは到底思えない無惨な光景が広がっている。

その昔、自営業者時代に業界団体の中の人として、ホラー映画規制やら児童ポルノ規制などでいろいろとネット上に情報を提供したことがある身として、今の惨状にいたる責任の一端がなくもないわけで、非常に忸怩たる思いもある。しかし公共という概念を左右に関係なく壊しにかかっていることは、社会として極めて危険な兆候であり、やはり何らかの意思表明は続けていかなくてはならないとも思っている。

この現代における公と私の境界線の混乱は、その言葉の再定義をおこなってきた中で起きた必然であると同時に、議論をおこしてきた人たちのフォロワー(悪く言えばエピゴーネン)らが、自説補強のために我田引水的に、そして雑に取り扱ってきたことが、今の惨状を招いていると思えてならない。彼らは結果としてポストモダニズムとは呼べないものをポストモダン(応用ポストモダニズム、または再帰的ポストモダニズム)と定義し始めて、社会構造の改変を「善きこと」として着手するという二重、三重の悪手を繰り出している。攪拌せよ、だの、規範を壊せ、だの、口で言うのは容易いが、壊す過程、壊した後の処理、現実と折り合いをつける作業は言い出しっぺの彼らではなく、市井に生きる弱者に押し付けられる。そのことへの反発をバックラッシュだの何だのと異論を外部化して、切断処理をしていたら、あちらこちらで衝突がおきるのは必須となる。

新自由主義に根ざしたリベラリズムの危うさは、今のイーロン・マスクを見ていれば誰にでもわかる話であるが、所謂ネオリベの思想は、社会階級の透明化を進めながら、公共と親密の概念を意図的に攪拌し混乱させ、自己決定権絶対主義という幻想を振り撒きながら、全てを消費財に変えていく。その対象はモノだけではない。ヒトも例外にはならない

全てを消費したいヒトらにすると、身体そのものだけでなく、臓器というパーツですらもその対象にする。己の体を消費財とするか否かを決められるようにするための自己決定権であり、リプロダクティブ・ヘルス/ライツだとする。社会に横たわる権威勾配、階級は全て透明化した上でだ。ネオリベはその目的を果たすために言葉の概念を奪い去るというのが大きな特徴であり、それ故に対抗するためには、「単純化せず具体的に」「物語を神話化せず、関わる人を聖人化しない」「地域や状況を限定する。それを普遍化してはならない」という原則を貫かなければならない。

階級をアイデンティティ化することの危険性はここにある。例えば、労働者階級であることを誇りに思うこととそれをアイデンティティ化することは全く違う。アイデンティティ化してしまえばそれは解体できなくなる。解体されなければその構造、つまり現実社会に横たわる差別や搾取は温存されるということだ。ネオリベは極めて巧みに承認欲求を煽りながら階級のアイデンティティ化を狙っている
階級の透明化された、議論は常に疑ってかかる。肝に銘じておきたい。たとえ善きことだとされていることでも、その例外にはならない。むしろ善きことの中にその罠は仕掛けられている

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