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【「聖霊に満たされていれば神学など学ばなくていい」の問題点】

・神学軽視による恣意的解釈の乱発
→いくらでも好き勝手に解釈できる

・対人援助技術の軽視
→人を無遠慮に傷つけるリスクが高い

・「聖霊に満たされる」の曖昧な判定基準
→主観を根拠なく絶対視/一般化する

「聖霊に満たされた」と言えば、教会ではわりと何を言ってもやっても許されてしまう。それで誰かが傷ついても、「あくまで聖霊に満たされてやったこと」なのだから、「完全に正しい(=神は間違いを犯さない)」はずで、だから受け取る側(傷ついた側)の問題だ、という話になってしまう。つまり立場の強い人間のやりたい放題になり得る。

だから「聖霊に満たされた」という言説は、キリスト教会の現場ではハラッサー製造機になっている。「聖霊に満たされた」と言い張る人間は基本的に信用してはいけない。

「神学校に行けば牧師になれる」というのも短絡的で問題があると思うけれど、じゃあ何も学ばなくても「聖霊に満たされて」いればいいか?というと、それはそれで問題がある。どのような形であれ人にかかわる仕事なのだから、何をどれだけ学んだのか、どんな人柄なのか、どんなハラスメント予防策を講じているのか、等が大切になるはず。なのに「聖霊に満たされた」で抽象的にまとめすぎている。

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