キリスト教界隈でしばしば見られる「保守vsリベラル」の対立について。
①
そもそもリベラルが何を指すのか(どの団体なのか、どの属性の人たちなのかetc)よく分からなかった。そもそも「リベラル」と分かりやすくラベリングされた集団がどこかにいるのだろうか? 答えは否だと思う。一方で保守派は、ある程度輪郭がはっきりしていて、いわゆる福音派、聖霊派、カリスマ派、ペンテコステ派等の教会群や、その系統の教えを支持する単立教会群がそれに該当すると思う(もちろんその中にも様々なグラデーションがあり、個々人によっても考え方は違う)。
つまり保守派はある程度どこに属する人たちか分かるけれど、リベラルはそもそも特定の教派を指すものでなく、結局「どこ」の「誰」だかよく分からない、という状況があるように思う。
③
話をキリスト教界隈に戻すと、「保守派vsリベラル」の対立関係(?)にも同じことが言えるのではないか。つまり生来的にリベラルを標榜する教派や団体が存在するのでなく、保守派の教会群やクリスチャンらが、自分たちの信仰にそぐわない、人権擁護や反差別(主に反同性愛差別だろう)を強調するクリスチャンらの言説を「リベラル」と(やや侮蔑を込めて)評したのが、いわゆる「リベラル」の誕生に少なからず寄与したのではないか。
そうだとしたら、自分がずっと感じていた「リベラルとはどの集団のことなのか」という問いが答えられると思う。「リベラル集団」が存在するのでなく、保守派が自分たちの信仰に反対する「敵」としての設定した「リベラル」が、ぼんやりした形で(時として個人の形を取りながら)存在するのではないだろうか。
②
一旦話が逸れるけれど、清水晶子さんらの書籍『ポリティカル・コレクトネスからどこへ』の中で、いわゆる「ポリコレ」登場の経緯が書かれていた。自分なりに要約すると「ポリティカル・コレクトネスを標榜する団体がどこかに登場したのでなく、世界的に広まりつつあった人権擁護/反差別の風潮(2017年に始まったMeToo運動や、BLMデモの再燃もその流れにあったと思われる)に対して、保守派が「ポリコレ」と揶揄したのが、ポリティカル・コレクトネスの誕生だった」ということ。つまりそもそもネガティブな意味合い、例えば「ポリコレ疲れ」や「ポリコレ棒」などと揶揄するために使われる言葉だった。
なので「ポリコレvs反ポリコレ」みたいな、どこかの集団vs集団の対立関係があったわけではなかった。
#ポリティカル・コレクトネスからどこへ