湯沢質幸『日本人は漢文をどう読んだか』勉誠社を読んでいます。「光る君へ」で藤原為時が①漢詩を直読で読んだこと、②現代中国語で発音したことを問題視したことですが、本質的には①が大事だと思い直しました。で、いまそれは横に置いておいて、②に奇妙な違和感を持つというのは私を含め、多くの人の反応で、Twitterなどでもそんな率直な感想が乱舞しています。
しかしよく考えてみると、登場人物が話す日本語は常に現代日本語の発音なんですね。我々視聴者は10世紀の京都にいる気持ちになって見ているわけですから、それで問題がない。いわば自動翻訳を間に挟んで「ドラマ的現実」を見ている。そうであれば、当時の漢詩はニアリーイコールで当時の現代中国語なのだから、現代北京語で為時が読み上げてもおかしくないはず。
じゃあ枕草子の紹介パートは「春は朝がやばい」と発音していたかというと、そうでもないところにアンバランスさがあります。さすがに日本人の頭に刻まれているフレーズをそこまで噛み砕くことは演出上できなかったのでしょうね。
視聴者>ドラマ世界>ドラマ世界で扱われる作品、という三重構造を古典語/現代語でどう演出するか、なかなか興味深い話題と思いました。