運動の経験者や、哲学者/思想家の人達が時に理解の難しい文章を書くことがあるようだ。
それは思考の軌跡や蓄積を反映かもしれないと思った。
述べる事柄が例えば一般論などではなく、自らの身体や頭脳を動かして実践した結果として出てきた表現であるならばそれは個別的/個人的な性質を帯びやすくなるのではないか。
ではそれをどうやって理解するのか?
その人独自の体験の軌跡の影響を受けた個々の単語の理解も重要ではあるが、多分総体としてのその人の世界観的な何かを理解するのが手っ取り早そうだと思う。
つまりどういうコンテクストを帯びさせて、ある単語をその人は用いているのか。
多分個々の単語の特殊な用いられ方に拘泥するのではなく、総体として理解した上で個々の意味が浮き上がってくるようにした方が良いのではということ。
周囲の状況といった意味でのコンテキストではなく、その人の体験内部におけるコンテキスト(?)といったようなものが"その人の理解"を理解する上で重要なのかなと思った。
ではどうやってその人の思考における世界観的何かを理解するのかという話にはなると思うのですが……難しい話だと思います(匙を投げる)。