自分を精神として意識していない、すなわち、神の前で自分を精神として人格的に意識していないあらゆる人間的実存は、そのように透明に神のうちに基礎をもたず漠然と何か抽象的普遍的なもの(国家、国民など)のなかに安住したり溶け込んでいたり、あるいは、
自分の自己について漠然とした意識しかもたぬために、自分の才能をただ活動力と考えるだけで、そのよってきたる深い意味を意識することもなく、自分の自己を、内面的に理解されるべきものであるのに、不可解な何ものかと考えているようなあらゆる人間的実存──すべてこのような実存は、
たとえそれが何を、どのような驚嘆すべきことを、成しとげようとも、たとえそれが何を、よし全人世を、説明しようとも、たとえそれがどれほど強烈に人生を美的に享楽しようとも、そのような実存はいずれもつまりは絶望なのである。
(キルケゴール『死にいたる病』)

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ここでキルケゴールの言っていることは、何となくだが少しはわかる気がする。
ただ同時に、同じように何となくだが違和感も抱く。

多分具体的な宗教が半透明化(?)されているような印象をこの文章から感じたからだと思う。
多分それが故に広範な聴衆を獲得する可能性があるということのかもしれないが。

旧来(?)の宗教からエキス的何か(≠エッセンス)が非宗教的現代人へと滴り落ちているような印象。 [参照]

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