音楽活動の中心が教会から劇場に移行していく時代、新しい芸術が合理的な世界を合理的に反映するようになる時代、蓋然性を扱い、神秘的なものに関与しないことが求められる時代がすでに到来していました。人間的条件を超越したいという熱望は、芸術から消えつつありました。──確かにそれは、例えば、
ベートーヴェンの作品の本質ではありました。彼が人間的可能性を超えて前進しようと奮闘しているのを私たちは感じます。しかし、ベートーヴェンの芸術の凄さは、むしろその奮闘ぶりにあるのであって、ときおり達成される超越の境地にあるのではないのです。
新しい時代には新しい音楽形式が生まれました。交響曲とソナタは、この新しい積極的な人間性がそれ自身を表現するために作った器楽形式でした。これらの形式は、主に、機能和声体系の簡略化と明確化に依拠していました。調的和声の曖昧な関係に頑丈な系統樹を与えたのです。
こうした形式に音楽主題の役割の新しい捉え方が現われました。人々の主題の用い方は、バッハの音楽がそうであったような、作品のあらゆる面に滲み出るものではなく、ある特別なもの、著しく波乱に富んだもの、瞬間に属するようなものです。
(『グレン・グールド発言集』頑固者バッハ(1962年))
>人々の主題の用い方は、バッハの音楽がそうであったような、作品のあらゆる面に滲み出るものではなく、ある特別なもの、著しく波乱に富んだもの、瞬間に属するようなものです。
ここが個人的には一番面白いと感じた点。
主題労作的な観点からの音楽の展開は単一主題を要求していたのかなと思った。
主題労作的な展開に拘ろうとすると、第2主題や第3主題は第1主題の首位性に席を譲り静止的要素を提供するに留まってしまったり特定の役割を担う部分的主題に留まってしまうのかなと思う。
それらには単一主題が備えていたような楽曲全体に及ぶ全的支配力(?)のようなものを欠いていたのかもしれない。
一方、複数主題制は対比や群像劇的な展開を要求していたのかもしれないと思うのだが、それらのような展開は確かに"ある特別なもの、著しく波乱に富んだもの、瞬間に属するようなもの"に適合していたのかもしれない。
刹那的/機会的存在として主題を利用するというのが、ここではバッハのやり方と対比されているのかもと思った。