番組内では「顔」の分かる人にもフォーカスして構成しているけど、これを読むと、企画のきっかけとなった「すずらんの兵士」には最後まで「顔」がないままだ。
ディレクターは、合点のいくような情報がないままに、思いがけず、誰かが踏んだ草の跡に唐突な生の存在を感知するような、そんな仕方でその誰かに出会う。
人となりを知って自分に引き寄せて共感できるわけでもなく、死者何名と引き離して理解を止めるのでもなく、よくこの位置に留まったなぁ、というか、留まらざるを得ないほどの情報しか与えなかった「すずらんの兵士」だからこその着地点というか…
ドキュメンタリーのほうには、ハエのたかる遺体の映像がある。この映像に「かわいそう」「ひどいことをされた」とは違う角度の、存在に対する動物的な共感を持って向き合うことがあっても良いと思った。
周縁化に関心があって観たドキュメンタリーだったけど、この文章と合わせてみると、周縁でもなんかの真ん中でも、ひとの生きた気配は一緒だと言われたような気がした。
そこに転がって死んでいるのは自分だ、ともだちでかぞくでこいびとで、それは知らない自分とおんなじ誰かだ。
何にも知らなくて、わたしの物語を重ねることができないとしても、そこにそんなふうに転がっていなければらないのは、間違っている。
そんなふうに言われた気がしたので、この若いディレクターに、「そうだね」と同意の気持ちで、もう一度映像の方を観ようかなと思った。