今、「インフル病みのペトロフ家」というロシア映画を見ている。まだ半分見ただけだけど、閉塞した社会状況の若者をテンポ良く描いていて、ロシア版クストリッツァって感じで今のところおもしろい。
そして、外国だと、文化を作ってる人に「覇気」があるなぁと、しみじみ思ってしまう。言い訳せずに体当たりで作品を作るという当たり前のことを、ふつうに覚悟を持ってやっていると感じる。
だって、ちゃんとした作品って、「広告」に慣れきった私たちの感性が「ダサい」と切り捨ててしまいかねない、作り手の価値観が示されるから絶対に。
私たちは「ダサい」って言われることを恐れすぎだと思う。「ダサい」と言われないこと(だけ)を指向して、結果的に何がしたいのかわからない「スタイリッシュ」な何かが完成、ということが多すぎる。
文化に関わるひとたちが、なにか絶対に譲れない価値とか倫理とかを真ん中に置くことを恐れ、「ダサい」こと=「間違っている」と思い込んで、ひたすら「ダサさ」を避けつづけ、「間違っていない」「言い訳」を無限につめこんだ「それらしい」何かを「繊細に」言おうとする。
そこには、一見「細やか」に見えて、ホームレスのいる公園を潰して商業施設にしてしまうような、華やかなまがまがしさと繋がる暴力が潜んでいると思う。