「リベラル・左派・正義」への批判、個人的にはまあ分からんでもない気がするんだけど(というかこの手の話自体がかなり紋切り型でパターン化してる)、同じぐらい右派への批判を強めないと片手落ち過ぎるよなあ

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要は左と右みたいな二項対立図式に注目して行う批判のパターンで、内容的には「深淵を覗き込むとき~」ってだけの話なんだよな。
「鏡を看よといふは、反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。」とは斎藤緑雨の言葉。

価値相対化を目指す言説はあらゆる政治を脱構築する。「左も右も変わらない」「正義の反対は別の正義」「今のリベラルは真のリベラルじゃない」等々……。
この手の言説をまず乗り越えるのが先なんだろうけど、なんかこの手の思考回路自体に当人を気持ちよくさせる効果があるっぽくて、どうにもならない。

そもそも左右で分けるような二項対立図式自体が低解像度な現実認識だと思うんだけど、でもまあ、それはいい。良くないけど、置いておく。

問題は、素直に「たったひとつの絶対的なもの」をブチ上げることはできないにも関わらず(盲信がどうとかのツッコミが必ず入る)、価値相対化によってかえって「たったひとつの絶対的なもの」を炙り出しちゃってるところにあるんだよな。

「左も右も一緒」「正義の逆は別の正義」みたいな言説は――種々の言葉を機能不全に追い込みながら――「戦わなければ生き残れない」みたいな世界観を匂わせ、さらにその言説を述べる主体は「自分はそういう醜い世界を良くないと思うし~、またそういう世界の真の姿に気づいた賢い人間なのだけど~、世界を変える力は持たないので離脱します~」みたいな振る舞いをする。

主体のそういう振る舞いは嫌われがちで特に強く批判されるのがいつものパターンなんだけど、個人的には価値相対化によって炙り出される絶対性が気になっている。

少子高齢化に加えて気候変動にもさらされる今の日本社会で重要なのはやはり連帯だろう。というかいかに連帯の言葉を紡いでいくのかが真のテーマな気がする。

ただそのためには安全の確保が最優先なので、不正義の排除は絶対に行わないといけない。そしてその振る舞い自体が反連帯的に解釈されたりする。

非寛容に寛容になってたらコミュニティなんか維持できないのはちょっと考えれば誰でも分かるはずだけど、誰も考えたりしない以上、言葉の外で行うしかないのか……?

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