『サラール』のデーヴァ
冒頭の子ども時代シーンで示されているのは、デーヴァの強さというよりも"恐れ知らず"なんだと思う。
まだ子どものデーヴァが大男と普通にやり合ったら絶対に適わない。でもデーヴァは、普通なら絶対に取らないような自分が死ぬかもしれない方法(感電)を使って勝つ。それは腕力的な強さというより、普通なら恐怖で出来ないことをやってのける、普通のルールが通じない人間だから。
ヴァラダがデーヴァを度々制止するのも、腕力そのものではなく、そういう普通のルールの通じなさを理解しているからだろう。これは子ども時代もカンサールに戻った2010でも同じで、相手がどれほど大きな権力を持っていてもデーヴァは構わず殺してしまう。子ども時代、大人のレスラーに挑んだのと同じように。
一方でカンサールは"恐怖"によって人々を支配してきたことが繰り返し強調される。そこに現れた"恐れ知らず"のデーヴァは、カンサール内部の権力関係やルールを駆使して争おうとする首領たちとは本質的に違う。カンサールの根幹にあるそもそもの理屈=恐怖が通じない治外法権な相手だ。
だからこそ、「強い」ではなく「狂気だ」が強調されるんじゃないだろうか。既存の権力が敷いているルールの通じなさ、それを「狂気」と呼んでるんじゃないかな。