なにか差別事例が起きたときに「我々も違う構図で同じようなことをやっているのでは」と振り返るのは必要だし大切なことだけど、それによって発端となった出来事を矮小化してしまう、その話を出来ない雰囲気にしてしまうのはよくないんじゃないか。そこを注意しながら言わなければいけないんじゃないかと最近は思う。

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自己反省が話の乗っ取りにならないように 

続き→まだ考え中で十分に言語化できないのだけど…。
なにか具体的な差別事例が話題になったときに「我々も◯◯の面ではマジョリティだから自分を省みなくてはね」と日頃の自分を振り返るのは悪いことじゃないし、私はその必要性を訴えてきた方だ。例えば欧米におけるアジア人差別の問題をただ批判するのではなく、我々も日本での差別をきちんと批判しようとか。それは間違っていないと今も思う。
ただ、そういう自己反省的な態度が一定広まったことと関係していると思うのだけど、今まさに危機や困難に置かれている人(たち)がいるその時に、「己の加害者性」を見つめて反省会を始める態度が結果として何を産み出すのかと最近考えてしまう。
みんな聖人じゃないから、これまでに犯した過ちも未だに不十分な点も今後失敗をやらかすこともきっとある。でも、その反省タイムを今、設けるべきなんだろうか。私たちの話を始めるべきなんだろうか。それは結局、今まさに困難に直面している人たちを脇において、自分の話にすり替えてしまう行為じゃないだろうか。
まず困難に置かれている人たちの味方になり、一緒に危機を打開しようと連帯し、その人たちの話を聞き、その人たちの話をしたい。

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