『日本語の歴史 2 文字とのめぐりあい』(平凡社ライブラリー)をようやく読み終えた。朝の隙間時間に少し読んでは戻り読んでは戻りしていたのでとても時間がかかったが楽しかった。亀井孝という人はすごいな。

気になったこと。山上憶良の「沈痾自哀文」などの万葉集所収の漢詩文について、奈良時代後期より以前に漢文訓読が行われていたという証拠はない以上、これが日本語の散文として書かれたとはみなせないとしているのだけど、ということは、憶良らはこれを純粋に外国語の詩として書いたということだよね。

「ひそかにおもひみるに、朝夕山野に佃食する者すらに、なお災害なくして(…)」というこの訓みは平安時代以降の訳文であって、作者はこれを中国語として書き、朗詠するときも中国語のみでしていたかも、ということだよね。理解正しいだろうか。

長くなるが当該箇所を引用しておく。「(…)ここで問題としてとりあげるのは、その歌につけられている、〔山上憶良の〕いわゆる「沈痾自哀文」──痾に沈み自ら哀しむ文──が、漢文としてりっぱな風格をもち、 奈良時代の知識人の文字能力を低く評価しえない厳とした証拠を提供している点である→

「そのことは、一方では、日本語による散文をつくりあげるまでの意識的な努力が、十分にあったかどうかを疑わせることにもなる。それについて、これを訓読してみれば、たとえ不自然であっても、日本語の文章になることから、すでに奈良時代に散文が成立していた証拠としたい誘惑がないわけではないが、この時代に、たとえば「沈痾自哀文」のようなものに返り点と送り仮名をつけて読み、かつ書きくだす方法があったことが立証されない以上、やはり、これには疑問をのこしておいたほうがいいようである。→

「平安朝に入ってのち、《日本書紀》の訓読の研究がすすめられたことから考えても、奈良時代までは漢文の読み方に、やはり限界があったとおもわれ、漢文訓読の成果からえられた文章のスタイルが、反転して日本語による自由な表現にまで適用されるのは、なお後代のことに属するとみておこう。→

「(…)奈良時代から平安朝にかけて、日本には、高度の内容をもち、しかも十分に鑑賞にたえる和風の散文がなかった──存在したという証がない──ことも、これを裏書きするものといえる。 宣命をもって、和風の文章の代表とする見方はあるが、それは、詔勅を宣布する草案にすぎず、むしろ、口頭言語の姿が歴然としていて、当時の漢文と比肩しうるほど、すぐれたものとは認められないのである。→

「内容の貧困さはいうにおよばず、その文の構成にある脆弱さはおおいがたく、宣命をもって散文の典型とし、その内容──その思想──に停滞していたとすれば、日本が、漢字文化圏内の有力な国家として、律令制度の確立を推進するなどという仕事にたえられたわけはない。そういう意味でも、宣命は、古代的な祭祀の形式を保存する必要から、奈良時代へ受けつがれたものにすぎず、そこに素朴と文明とが共存するかにみえるのも、政治的になおすてきれなかった国粋の遺風を反映していたためであろう。→

フォロー

「日本における散文の成立は、 やはり、漢文訓読の余徳とみるべきで、そこへいたる前段階として、視覚的言語の理解により、 深くエネルギーをたくわええたからにほかならない」(亀井孝 他編(『日本語の歴史 2』平凡社ライブラリー、p.379-80)

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