監督の力量の問題なのかわからないけど、『エイリアン: ロムルス』を観て、エイリアンがもうモニュメントでしかないのではって思ってしまうかなしさは、今回の『ブルーシード』の再放送の「キツくて観たいと思っても進めねえ」に近い感じあった。手をつけられない部分が足枷になってる感じが。いやでも『フュリオサ』はめちゃくちゃ手をつけてて完璧だったじゃん。
だから「監督の力量の問題なのかわからないけど」って前置きしたくなるんだよ。
フュリオサの人生を復讐ポルノみたいな消費にしないで撮れるんなら、なんだってモニュメント化は避けられたんじゃねえのかな。
影響を受けて育ってしまった作品についての現在位置からの批判て、自分が何を内面化してきたかを確認する行為で、決してアンフェアなもんではなく、むしろ昇華だと思うんだけど、実際『マッドマックス フュリオサ』にはそれがあった。
ても過去作のオマージュのコラージュであった『エイリアン ロムルス』は、なんていうかスコラ学的な、まず過去作は全て無謬であるって視点、態度があるんだよな。これはニール・ブロムカンプがやろうとしていた『エイリアン5』とは真逆で、そういう態度について、ずっと引っかかってたんじゃねえかな俺は。いや俺は『エイリアン3』好きだから、ブロムカンプのエイリアンが果たして受け付けたかは知らねえけど、それでも、もしかしたら、ロムルスよりはずっと次に繋がるエイリアンだったかもしれない。ロムルスはマジでピラミッドなんだよ。
ブルーシードの感想でもそうなんだけど、時代的制約のある過去の作品を、今の視点から批判するのはアンフェアって言われることあんだけど、差別ってある日突然差別になったんではなくて、当時からもちろん差別であっても透明化されてて、それで楽しく消費してましたってことが、俺は今更可視化できたもんで、そうとは知らず内面化してしまったものついて今振り返り批判するというのは、今こうでありたいって考える自分と、こうなってしまった自分との乖離をはかるのに必要じゃないの。