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語りの声を手に入れて、なんでも語りに整形し直せるということが、「良き行い」のようになっているのがこわくて、語ると言うこと(第三者の聞き手を意識して喋る)ことをばかり推奨しないでほしい、と思う。
「語り」と言う行為の向こう側には「理解」という無意識的な権力勾配があって、そこに飲み込まれないような表現を獲得している人だけが「語り」を自分のものにできると言う能力主義的な部分がある。

「理解」、「わかる」と言う感覚、すごく一方的で、「理解する」側に権力がある。そしてその権力に向かって「説明する」ということが、どれだけ権力側に「合わせた」行為なのかということ。

「(理解させるための)語りの巧みさ」「(理解するための)聞き取りの巧さ」で淘汰がおきるフィールドで「語り」の存在を重要視されても…という。そしてもちろん「理解する側」の許容という、一方的すぎる選別があるわけで。

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