実家の冷蔵庫の中の食品と飲料の(父にとっての)視認性を工夫しないといけない。
色々詰め込んであると、分からなくて、その分からない感覚が嫌で、冷蔵庫を開けたくなくなってしまうのだ。そうすると栄養管理的に大変問題になってしまう。
みかんジュースと野菜ジュースを冷たい方がよかろうと冷蔵庫に詰めたけど、どうも今回それが庫内全体の把握を難しくしてしまったようだ。
目指すのは、父が冷蔵庫に自分でアクセスして嬉しいと思える食品を出して食べられること。それがポジティブに感じられること。
理解はおぼつかず、新しい記憶も獲得しなくなっても、「気持ち」は積み上がるのだ。
「わからない」状態の辛さを、自分なら晩年どうケアして欲しいだろうか。自分という人間のエンパシーの足りなさを噛み締める。優しさは正しさの百万倍難しい。