長文の独り言メモ
以下、個人的なメモとして。
身体露出を伴う身体表現が、性差に関する文化的呪縛からの解放行為となるのか、性的記号の商品化でしかないのか、という問いはもはや古典的とも言える気がするし、個人的な印象としてはなんとなくこれはOKでこれはアカンやろという判断はあるが、その線引きについてはうまく言語化出来ずにいる。
とりわけ、広告が文化のパトロン的役割を負ってしまっている社会においては、商業的であるかどうかだけでは線引きできない。そして現在問題となっているのはまさに広告・宣伝における表現の問題と言って良いように思われる。
現状ではとりあえず、CSAM拡散防止のように、公共の場における表現内容に関して一定の年齢基準を設けるのは対症療法的には現実的のように思われる。(とはいえ、抜本的な回答にはなっていないが。)
重要な点としては、創作・表現活動そのものを否定する必要は無いわけで、あくまでも公共の場における広告のありかたの問題であると言える。
したがって線引き基準について問われるべきは、創作者ではなく、第一義的には、媒体にどの広告を載せるかを判断する立場=広告収入を得る者がその責任を負うということになる。(以下続く)
長文の独り言メモ・続きの続き
最初に戻って。
身体露出を伴う身体表現について、それが文化的呪縛からの解放行為なのか単に文化的性的記号の商品化にすぎないのかの基準について、普遍的な共通認識として言語化されたものを私はまだ見つけられていない。
それを言語化するには、相当数の知見を共有し合い統合することが不可欠なのだが、それには相応の時間が必要となる。
しかし、マテリアル(創作物)の流通の拡大速度が速すぎて、追いつけていない。
以上、とりあえず現状認識のみで結論無しで中断。