長文の独り言メモ 

以下、個人的なメモとして。

身体露出を伴う身体表現が、性差に関する文化的呪縛からの解放行為となるのか、性的記号の商品化でしかないのか、という問いはもはや古典的とも言える気がするし、個人的な印象としてはなんとなくこれはOKでこれはアカンやろという判断はあるが、その線引きについてはうまく言語化出来ずにいる。
とりわけ、広告が文化のパトロン的役割を負ってしまっている社会においては、商業的であるかどうかだけでは線引きできない。そして現在問題となっているのはまさに広告・宣伝における表現の問題と言って良いように思われる。
現状ではとりあえず、CSAM拡散防止のように、公共の場における表現内容に関して一定の年齢基準を設けるのは対症療法的には現実的のように思われる。(とはいえ、抜本的な回答にはなっていないが。)
重要な点としては、創作・表現活動そのものを否定する必要は無いわけで、あくまでも公共の場における広告のありかたの問題であると言える。
したがって線引き基準について問われるべきは、創作者ではなく、第一義的には、媒体にどの広告を載せるかを判断する立場=広告収入を得る者がその責任を負うということになる。(以下続く)

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長文の独り言メモ・続き 

ある種古典的な、物理的な広告媒体であれば、そのように媒体の責任で判断することを落とし所にすることが出来る。
しかし今日のように、大量の情報が行き交うプラットフォームが急速に拡大している状況においては、必ずしも全ての広告(宣伝・告知)が、媒体の責任において個々の掲載可否を判断出来るわけではない、とも言える。
これは有料の広告枠だけの問題なのではなくて、インターネットの拡大によって、創作者が同時に宣伝者である環境が整備されたことによって、(必ずしも対価を伴わない)情報共有としての創作物の流通・告知・宣伝が急速に拡大したことで、判断責任の主体と基準が曖昧?になったということだと言えるか。
いや、曖昧と言うよりは、情報共有が早すぎて、その際の共通理解を形成・確認することが困難になった(追いついていない)ということか。
マスクのTwitterにおける表現規制緩和の方向性は、ポピュリズムによる共通理解の形成であると考えられる。しかしポピュリズムによって形成された共通理解に基づく社会がどういう末路を辿るかは、20世紀のファシズムの隆盛と社会崩壊を見れば明かとも言える。その意味で、ポピュリズムは民主的であるようでいて、実は近代民主制を破壊する大きな要因でもある(これは多くの人が指摘している)。

長文の独り言メモ・続きの続き 

最初に戻って。
身体露出を伴う身体表現について、それが文化的呪縛からの解放行為なのか単に文化的性的記号の商品化にすぎないのかの基準について、普遍的な共通認識として言語化されたものを私はまだ見つけられていない。
それを言語化するには、相当数の知見を共有し合い統合することが不可欠なのだが、それには相応の時間が必要となる。
しかし、マテリアル(創作物)の流通の拡大速度が速すぎて、追いつけていない。

以上、とりあえず現状認識のみで結論無しで中断。

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