志願も実質強制であったことは、当時の軍部や国会も認識していた。
軍の公式の記録である金原節三の『陸軍省業務日誌摘録』には「 陸軍省局長会報での武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長の応答(1941、4月16日)」が記録されています。(『陸軍省業務日誌摘録』 前篇 その3のイ)
・軍務局長 「(略) 朝鮮の徴兵制度。及び台湾は志願兵制度をしく要望高し。これは政治上問題あるをもって検討いたし度。」
・兵務局長 「朝鮮現在の志願兵制度はその実質を微するに必ずしも真実志願せるものは少なく、強圧により止むを得ず志願せりというもの多し。従って徴兵制の施行は多いに考慮を要す。」
それから2年後の1943年2月26日、「帝国議会貴族院委員会」で、次のような答弁がなされた。
(政府委員田中武雄)「・・・・それから次は創氏の問題、志願兵問題等に付きまして、官邊の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りました」
QT: https://fedibird.com/@lautrea/110928873368337274 [参照]