若い時は自分が誤解されるたびに悲しんでその誤解を解くことに必死になったりしたもんだけど、ある年齢から今度は理解されることが煩わしくなっていった。
この理解ってのは少し複雑で、自分が分かってほしいことは理解されたいのだけれど、自分が期待していないところで勝手に理解した気になられるのが不愉快だっていう、非常に身勝手な代物なんだよね。
とまれ、そのうちそのふたつの区分さえどうでも良くなってくる。ひっくるめて理解されるくらいなら誤解される方がマシだとさえ思えてくるようになる。
こうなるとしめたもので、他人に期待しなくなる、ということを覚えるのだな。そう、これは他者への期待の表れ以外のなにものでもないわけで。
とはいえ、徹頭徹尾それができるようになるには、まるで仙人になるための秘薬かなにかでも手に入れなきゃ不可能なわけですよ。もしくは悟りを得るとか。

なので基本、人には期待しない。けど、期待は捨てない。期待した人に出会えたらそれはもう僥倖ってことになる。こういうことだからこそ、年齢を経てからの、気に入った人との出会いは特別なものになるんでしょうね。

少し前に若者がいるバーでそんな話をしました。歳取るのもわるかねえぞ、むしろこんなおもれえことがあんだぜってね。じつに年寄りくさい自慢ですが笑

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学生時代の友人とは少ししか繋がってないけど、その後の各々の経験値で会話の深さが全く違ってくると感じます。帰省して会うと、会話が上滑りして噛み合わないことがある。若い頃にあった無邪気さや根拠のない自信みたいなものはもう持ち合わせていないけど、
多少の酸いも甘いも経験して、雨風に耐えて来た自分には今なりの良さがあって、そういったことを言わずとも理解して時に共有できる友人は大事です。色々と考えるきっかけをありがとう。

年齢を重ねてからできた友人というのは、必要以上に相手を理解しようとしないんですよね。言い換えると期待しすぎない。その距離感がありがたいしちょうどいいんですよね。でもわかって欲しいことは経験値で理解できる。
歳を取ると出会いが減るというけれど、そんなことは全然ない。そう思うだけでも、生きるのが余計に楽しくなります。
ソウルメイトになるだけが友達になることではないし、という気楽さも互いに持ち合わせてたりするのでいいことづくめ。
はー楽しいっす♪

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