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「人権と対話と政治は、とても関係してます」という話をします。

ハンナ・アレントは、「複数性」こそ、政治——つまり対話と合意が成立する必要十分条件であると考えた(『活動的生』)。「複数性」とは「すべての人が、それぞれ異なり、同時に平等」であり、「他者の視点と出会えること」。私の意見では「複数性を破壊しないこと」と「人権を守ること」は等価だ。

そして一つの意見に人々を強制する全体主義は、複数性の破壊であるとアレントは考えた。

この概念を使って「極右や差別主義者がダメだな〜、と思う理由」を説明すると、こうなる。極右や差別主義者は、普遍的な人権を否定し、友と敵を分断して共通の「敵」を作る事で団結し、自派の支持を集める。これは対話による合意、つまり本来の意味での政治の否定に他ならない。

人権を認めない極右や差別主義者の問題点は、複数性を破壊し、対話と合意——政治を機能不全にしてしまうことだ。

ここまでは普遍的な話だ(なので「抽象的だ」と思われる人もいるかもしれない。その通りで、抽象的だから普遍的なのです)。

……ではあるが、直近では下記のポストを見て思った話です。
twitter.com/HironobuSUZUKI/sta

1行で超訳すると「人権を認めない人とは、対話も合意も成立しない」。

特定の分野でバグる人——例えばトランスジェンダーの人権や、パレスチナの人々の人権の話でバグる人は、その特定の話題については「人権を認めない」状態になっているために、対話が壊れてしまう、と説明できるでしょう。話し相手や、話の対象の尊厳を認め傾聴することなしに、対話は成立しないのですから。

X/Twitterを筆頭とするSNSや掲示板の類は「相手の人格/尊厳を認めない意見交換が発生しやすい」という点で、「複数性の破壊」を助長しているかもしれません。

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