分かった!
マジョリティだからマイノリティの痛みや恐れを「理解しなければならない」というもの言いを私が苦手に思う理由。
例えば、日本に住むエリート男性が妻や娘や、近所の外国人や障害者を見下しているとする。
その人が妻や娘との関係の「悩み」で、心理面接を希望してきたとする。家庭の中でその人はかなり横柄で傲慢で、家族はそれに嫌気がさしているけれど、本人は自分は頑張ってるのに妻の態度が悪いと言う。
その時に私がやるのは妻や娘の思いを「理解させる」ことではない。それは心理面接ではない。説教とか教育とかになっちゃう。
じゃあ何をするかと言うとその人の中の幼く怯えていて傷つきやすい子どもの心に彼が触れられるようにする。彼は本当は妻子に怯えている。
それを最初から目的化するわけじゃないけど、その人の話をゆっくり聴いていくということは結果としてはそう言う作業になる。「こんなに頑張ってる」のだって嘘じゃない。
なんでそんなに頑張っているかと言えば奥さんに見捨てられたくないからだったりする。プライドが邪魔してそうは言わないかもしれないけど。
自分の中の傷つきやすい自分にアクセス出来るようになると人は弱い者の気持ちが当たり前に分かるようになる。
思いやりを持つ強さを求めるのではなく、その人の弱さに触れる。
あの人たち、自分とマイノリティはおんなじだと思ってないんですよ。
だから分からない。
だから、本当はおんなじだと「気づく」ことが大事。「努力してそう思う」ことではなくて、目を背けていた「事実を知る」と自然に分かるようになる。
そのあとは、個々のひとつひとつの具体的な事どもは、一個ずつ教わっていけばいい。教わらなければわからないことはたくさんあるし、それは仕方がないところもある。私だってそれは変わらない。
差別って、結局権力勾配の話だし、どんな人だってそれを子ども時代から一度も体験していない人はいない。
むしろ体験して辛い思いをしてきた人ほど弱い者に辛く当たるのは普通にあること。