あー、ザイトクが反対意見を言うことで相手を黙らせようとするのはこれを利用してるのかも。僕はザイトクなんてそんなものだと思ってるから「あなたが反対していることはわかりました。それで?」って言っちゃうんだけど。

「(自分の前で)自分を出す相手への恐怖」が日本人、ハンパないんだよね。自分と相手との差異に耐えられないから」

fedibird.com/@zpitschi/1102461 [参照]

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@lematin

ちゃんと知識を持って撃退しなければ負けちゃうと言う思い込みも強いですからね、日本人。だから分からないことを強めに言われると「勝てない」と思って言葉を失っちゃう。本当は別に撃退(勝つこと)しなくても「私は嫌だ」と対立(自己主張)するだけで十分なんだけど。

@lematin

これも「正解は一つしかない」みたいな教育の成果でもあると思うけど。

「人生それまでに人と話し合った時間」を累積するなんらかの方法があるとして、その累積時間を欧州の一般的な人間と、日本の一般的な人間で比較したら、桁違いに前者の方が長いだろう、と私は思っています。とにかく、なんでもいいから会ったり、集まったりして人と話している。日本人的には異様におしゃべりだと言われる私でさえ、たまにしゃべるのが辛くなるぐらいえんえんとしゃべる。

子供の時からそうした習慣を続けているから無理なくそれができるのではないかと思っていますが、こうしたコミュニケーションの強度の中で、自然に、しゃべる自分としゃべっている誰か、という個が浮き彫りになって個という定常状態が形成されているのだろうなあ、と思っています。なにもなしに、無から個は生まれないので。

ここで再び重要になるのが、コミュニケーションの前提となる時間、です。時間がなければおしゃべりはできない。そうすると、個の形成はきわめて脆弱な定常状態にしかならない。「戦中」にあることで、時間を奪われ、そのようになっているのだと思っています。

@kmiura @lematin

卵と鶏になってしまうのですが、日本人がこんな「戦中」をずっと続けているのは「しんどいけど、その方がまだ安心だから」だろうと、私の目には映ってしまうよですよね。家族とでさえ(いや寧ろ家族であればなおのこと)、向き合って自分の言葉でしゃべると言うことが死ぬほど怖い人たち…それが日本人です。作れば作れる時間でさえ、どうしたら持たずに済むかに、皆んな汲々としています。

帰宅するのが怖いから(本当は早く帰ろうと思えば帰れるのに)深夜まで残業しているサラリーマンや、人生を家事で埋め尽くすことで、それで子どもや夫とのコミュニケーションの代わりにしている妻(母)など、まったく見慣れた光景です。

なので、時間をたっぷり確保して、ただ自分のことを語ってもらう心理面接では、彼らは途方に暮れる。治療者がどんな反応を期待しているのかを必死で探ってくるか、または自分を安心させるような反応をして(仲良くして)くれることを求めてきたり、それが望めないと分かると今度は怒りを爆発させたりと言うことが往々にして起きる。

だから、国民に馬車馬みたいに働くことを強いる政府と強いられる国民は、案外win-winなんじゃないかと思ったりしています。

@pandapanda @kmiura @lematin

私の実家の両親は左翼だったので、政治の話は良くしていました。少なくとも私が幼い頃までは、学生結婚した若い2人は(父が帰宅するのがそもそも深夜だったので)、結構仲睦まじく、深夜までお酒を飲みながら楽しそうに喋っていた。

しかし、自分たちの間にある葛藤的な話題については、おそらくほとんど語り合うことができなかった。

父は仕事や「活動」に逃げ、母はその不満を子ども(私)にずっと投げつけてきていた。やはり彼らもまた語り合うことは難しかったんだと思います。

@zpitschi @pandapanda @kmiura @lematin
僕の両親は「共産党怖い」と言う一方で「右翼怖い」とも言っていて、とにかく「政治の話はするな!」の一点張りでした。実家は貧乏だったので、父親は「働く事以外に何かをする」事は無かったですし、また、それ以外の事を知らなかった。父親の両親も物凄い貧乏だったので(祖父の日記を読んだことがありますが、「高度成長期」なのに「戦時中」みたいな生活をしていました)。

母親の方も「余裕の無い家庭」だったので、両親そろって「食べていくだけで精一杯」で「政治どころじゃない」。両祖父母も「政治の話は怖いからするな」だったので、本当にタブーでした。そして「とにかく自民党に入れとけば間違いない」という理由で自民党に投票していました。

後に両親が「宗教団体」に入信し、仕事をする以外何も知らない父親と、宗教にのめり込む母親。子どもはほったらかし。当然、家庭は「崩壊」しました。誰かと「向かい合う」事を誰もしないのですから。

余談ですが、その宗教団体には現職の自民党議員(大臣経験者)や元・東京都知事が関係しています。僕はこの人たちが大嫌いですが「襲ってやろう」と思った事は無いですね。

当たり前ですけど。

@simostukisizuk @pandapanda @kmiura @lematin

誰とも…それどころか自分自身とも対話することのない、心の中の大きな虚空を埋めるのに、カルトは役に立ちますよね。

それにしてもご両親はずっと常に何かに怯えて少しでも“安全な(間違いない)“選択肢を選ぶことで必死だった人生のように読めました。

うちの両親は左翼だったので、表面的には事情はずいぶん違うのですが、本質的な部分(安心して自分を出して誰かと向き合うことができない)ではおそらく同じだったんだろうなと思います。

そしてそんな不安な彼らを支えていたのがイデオロギーだったようにも感じます。

@zpitschi @pandapanda @kmiura @lematin
父親は病気で仕事が出来ない身体になって直ぐに他界しました。母親は、宗教団体とは関係を持ち続けていますが、昔に比べて遥かにマシになっています(それでも、唯一の心の支えである事に変わりはありませんが)。政治の話は未だに怖がりますが、最近は福島瑞穂さんに好感を持っているので「福島さん良いよね。社民党っていうのもありだね」と言っています。


今の市民も多くはだいたいそんな感じじゃないですか。ずっとそんな感じで今に至ったのではないですか。一度も成熟した大人の市民社会になったことがないのではないですか。日本という国。

誰も対話ができない。

どうやったら良い国になれるの?😢

@pandapanda @simostukisizuk @kmiura @lematin

何かねぇ。😮‍💨
だから政治に限らず、私としては、日頃から普通に思ったこと、感じたことを、正解かどうかとかに怯えずに、当たり前に話すことは心掛けてはいるんですけどね。

それだけでも結構な波紋になったりするのが現状だと思うので。

もちろん政治の話も、割と素朴な気持ちをそのまま言葉にする…みたいにするようにしてます。誰にでも今日からでもできることだよ、と。

そこからじゃないですかね。それ出来なくて、普通の市民が日常的に難しい議論ができる気はしない。

ですね…

早く小学校からの人権教育を取り入れて市民の性質を変えたいのですが、皆さん投票してくれないことにはね…どうにもならないのよね、カルト政権じゃ…

@pandapanda @zpitschi @kmiura @lematin
ウチの家族がまさにそうです。
窒息しそうなくらい息苦しかった。

あ、うちもそうでした!(元気よく言うことでもないがな😇

@pandapanda @simostukisizuk @kmiura @lematin

ちょっと違うかもだけど、少し古い映画だけど、「バッファロー66」とか、「アメリカンビューティ」とか観た時には、あの両親の関係にデジャヴ感がありましたね。話をしているようで何も話ができてない、あの感じ。頭がクラクラしてくる感じ。そう考えると日本だけの話でもないのか。日本だとあそこまでも行かないのかもだけど。

韓国でも全く同じ話があります。「社会が常に緊急事態であると考えられるので、夫婦が自分の役割に没入する」という説明があるところまで同じ。

@kmiura @lematin

大体、そうやってたっぷり確保した仕事の時間でさえ、まともに話し合う時間など決して持てないようにするのが、暗黙のお約束だし。

さんと さんの会話に おふたりの会話に頷づいています。西洋社会に身をうずめて暮らしていて同じように感じるし、それでも語りあうことに慣れていないばかりか、恥ずかしがったり躊躇したり面倒くさいと思ったりする自分を見つめております。

いい時間をすごす=語り合う ということがもっと上手にできるようになりたいなぁ。

その中には、相手の話がちょっと退屈だったりしても受けとめられる器を持つとか、自分のこんなことを話したら軽蔑されるかなぁと心配しないスキルもあるのかなぁ。あまり内容にガツガツしない(ひとつひとつに意義を要求しない)でダラダラ話す時間の余裕を覚えることかなぁと想像しています。

おしゃべりすることに絶対的安心感があったら成功も失敗もないので無理なく続けられるのかなあ、と思いますが、話す形式、立場、言葉の運用、人間関係、などなどがごた混ぜになってビルトインしている日本語という母語の、文脈依存性の高いヘビーさが、他の言語で話すときの強度に影響しているのかもなー、とおもいます。「言い方が悪い」という場面が日本語だとよくあるのでそう思う。

@kmiura @blue

喃語に近い感じですかね。以心伝心が好きなので(非常に幼い頃の母子関係を引き摺っていて、それを理想としている)、相手と自分を切断する言語を好まないところがありますね(本来ならば言語というのは切断の機能を持つ)。言葉で伝えることを「水くさい」と忌避する。

切断しているわけではないんだけどね。真面目に話せば話すほど「言い方が悪い」となるのだが、たぶん強度に耐えられないんだろうなあ、と思う。たとえば強度を弱めたり、直接さを避けるためにカタカナ語を使ったりして曖昧化することがありますね。嘔吐を「リーバース」といったり。「戻す」を和製英語にしていっているのだろうけど。

最初にドイツの居酒屋に行った時に驚いたのはシンプルなほぼテーブルと椅子だけの空間で(と言っても床も家具も木なので味わいはあるが)、ガヤガヤとずっと喋っていたことでした。音楽とかもない。とにかく何時間もしゃべっているのです。それ以外の音はワールドカップやユーロカップのテレビがつく時でその時はみんなそっちをみてこれまたガヤガヤ。慣れるとできるようにはなって楽しめるけど、あれを一日中やるまではちとできない。

一方、日本の居酒屋でもラーメン屋でも音楽かかっているが、あれも言葉の直接対決をうやむやにする「言い方」のソフト化マイルド化あるいは無害化をサポートしている気がする。スキー場でさえラウドスピーカーでげんなりするような音楽かけているもんなあ。

そう思うと、「君の名は」とか新海誠の映画は、そうした音楽でコミュニケーションの不在をあたかもそこにコミュニケーションがあるかのように隠蔽する作用をうまく使っているなー、と思います。


でも一方で、超正直に言うと、1日中とは言わないまでもずっとおしゃべりしていてネタが尽きないのだろうか?とかも内心ちょっと思ってしまうんですよねー。

とても気の合う人とか、知識と知恵がたくさんある人とはずっと話していても飽きないしどんどん次の話題に移っていって充実するけれど、そういう人が多いわけではないし。

…なんて思うこと自体が狭量なintrovertってことなのかしら、とも思ったりもします。しかしもうちょっとおしゃべりを楽しめるようになりたいとも思うのです。😅

スキー場の音楽は本当に本当にイヤです!!!! 最悪。一時期あれがイヤで行かなくなったようなものです。JRスキーなんとかとか。

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