国家を支持するとか国家を愛するとか、かなり怖い言葉なので、デモのシュプレヒコールで散見されるようになってきたことに危機感ある。
弾圧されている国や地域に連帯することや、その土地の自治権/独立/解放を支持すること、そこに暮らす人や動植物の権利を支持すること、その人々からの意見や声明を支持することと、「特定の国家そのものを支持したり愛したりすること」は、全く別の行為だと思っている。
国家とは最も支配的な権力を保持している排他的政治共同体なので、権力の塊かつ支配の象徴みたいな「国家そのもの」を支持したり愛したりしてしまうならば、そしてそれを参加者たちで共有するのであれば、その運動はナショナリズムまっしぐらなんじゃないのかと。
「We love 〇〇(任意の国名)!!」のようなシュプレヒコールは、(それが自国に向いていようと他国に向いていようと)かなり愛国運動の様相を呈しているので、「どうしてもこの運動にナショナリズムを持ち込みたい」という意図が無いのであれば行うべきじゃないし乗るべきでもないと思う。

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郷土愛もマクロなナショナリズムなのだけど、地元への愛着とか馴染みのある場所への好意みたいなものは私も持っているので、自分もナショナリズムを内面化していることを自覚しつつ、それでもナショナリズムに回収されないでいたい。
国家にせよ家にせよ、それらは人が集まったことで作られた共同体でしかないけど、その共同体に権力が付与されてしまっている以上、そうした共同体そのものへの支持や愛着は、国家ならナショナリズム、家なら家父長制というように、簡単に権威主義や全体主義に転んでしまうよね。

もちろん、「私たちはこの国を愛している」と言うことでしか紡げない思いや抵抗できない側面もあるはずで、全てをナショナリズムだと批判するつもりはないです。
それでも、人権運動において権利を取り戻す主体は市民であって国家ではないということ、国家や家など共同体への愛着を主軸にした(あるいは利用した)運動が歴史的に何に回収されてきたのかということに、私たちは運動の中で何度でも立ち返る必要があるとは思う。

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