歴史的に排除されてきたマイノリティの人々を対象にしたり、そのようなマイノリティの人々も包括した活動をする場合、排除や加害の意図がないことを可能な限り証明することは、リーチする側が果たさなければならない責任であると私は考えている。
近年の実例を挙げる。アメリカではCovid-19禍においてワクチン接種を進める中、アフリカン・アメリカンのコミュニティから接種拒否や反発が起きた。これは、アフリカン・アメリカンが「政府が自分たちを実験台にしている」と医療不信に至るに足る歴史を経験していたから起きた衝突とされている。
これはマイノリティが政府の発表を"誤読"したから起きた問題かもしれないが、決してマイノリティ側の"誤読"を責めるべきではない。
排除や加害という暗黙の意図を"読み取る"ことをマイノリティに強いてきた社会において、排除や加害の意図がないことを十分に説明し信頼を回復するのは、社会側が果たすべきコストである。
日本で社会的・文化的なマイノリティに何かしら働きかける活動をするときも同じく、マイノリティに排除の意図を"読み取らせてしまう"(誤読させてしまう)社会を認識し、包括を目指すのであれば尚のこと、リーチする側は排除や加害の意図がないことを証明する(あるいは証明し続ける)必要があるだろう。 1/2

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現状、なんらかのマイノリティにリーチする活動(福祉や研究など)をしている人もまたマイノリティ当事者である場合が多く、おそらく私もそれに含まれる。
リーチする側/される側にしても結果的に当事者にばかり説明コストが課されていて、本来ならばこのコストを生み出しているマジョリティに課されるべき課題がマイノリティ・コミュニティ内で消化されているのもまた事実である。
それでも、リーチする側/される側の間には権力勾配が存在し、そのためリーチする側はやはり、排除や加害の意図がないことを証明し続ける責任と必要があると私は思う。
今は私自身がリーチする側になることもあるので、これは本当に自戒としての投稿である。
(誤字を訂正して再投稿) 2/2

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